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2004年3月11日 (木)

『本を読む前に』 荒川洋治

0169562400001.jpg 「荒川ブーム」は終わらない。
昨年末に『忘れられる過去』というエッセー集を読んで瞠目。なんでこの人に出会わなかったのだろう!と思って以来、さかのぼる形で、荒川さんの著書を読みあさっている。もちろん詩人であることは知っていたけれど。
ちなみに、その後『夜のある町で』『言葉のラジオ』『文学が好き』『読書の階段』、そして、本書『本を読む前に』という溺れぶり。

本書における荒川さんは、少し世の中に「意見」しちゃってる。誰の助けもかりず、でも、きっぱりと「そういうのはダメだ!」と言い切ってる。例えばある文学賞の受賞パーティーに列席したところ、高名な文学者たちが、参加者や受賞者のことを一切考えずに、長々とスピーチをし、受賞作の朗読をし(多分、詩なのでしょう)、1時間半たっても乾杯にならない。すると、荒川さんはこう言うのだ。

    時間に意識のない人たちがものを書いているのだ。
    読者(聴衆)の気持ちが見えないまま書いているのだ。
    これだけで彼らがいま何をしているのか。どういう人たち
    であるのかがわかる。わざわざその作品を読む必要はない。
    立っているだけで、見える。

このエッセーのタイトルは「恥ずかしい」である。うーーん、荒川さん、まっすぐな主張。
すごいなぁ、自分の属している世界のことを、こんなふうに言える潔さって。

こうした荒川さんの、周囲に流されない態度、一見、偏屈に見えるようなありかたは、「文学」が好き、言葉を大切にしたい、いいものはいいと心から言いたい、そういう志に根差しているものなのだ。それ以外の他意は全くないのだろう。そんな愚直なまでのありようとは裏腹に、その言葉に対する感覚は天才的。「散文で荒れた」という感覚を持つのだから、人一倍敏感で、みずみずしい、固有の言語感覚が心のうちに息づいているのだと思う。そんな感覚にフィットする文章を見つけると、荒川さんは、「ずっとそばにいたいと思うような本」なんて言う。第三者的な物言いをしない。すべて自分に引きつける感覚。これが詩人の魂なのか、と詩心のない私は思う。

荒川さんの本を読んでいて、心が洗われる気持ちになるのは、半分は、その主張のまっすぐさ、そして、残りの半分は、その言葉や物事に対する距離感と、それが表現されたリズム感のせいだと、私は思っている。そしていま、まるで麻薬のように溺れているのである。

本を読む前に 荒川洋治  新書館 1999年

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