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2004年5月 5日 (水)

『ひどい感じ 父・井上光晴』 井上荒野

0220912300001.jpg 井上荒野がとても好きになった。ファーザーコンプレックスの強い娘であることからは、逃れられそうにないけれど、人間の本質を見抜き、少ない言葉で的確に表現する力はすばらしい。そして、それが翻って自身を語ることになっている。

本書については、解説は不要。荒野は、自分の家族を的確に描き切っている。そして私は、この家族に非常に深い共感を覚える。スポットライトを浴びているのは、もちろん光晴と娘の関係であるが、それを支えていたのは、光晴の妻であり、荒野の母である女性の大いなる力であることは間違いない。芸術家を家族に持つことの意味のすべてが、この家族には凝縮されている。

父が死んだ後、母はしばらく呆然としていた。呆然と「普通の奥さんって、こんなにヒマなものなのね」と呟いていた。父との結婚生活。それは娘の私にして、前人未到の大スペクタクルに思えるほどで、母によれば「ドトー(怒濤)」というほかない日々だったという。体力とか知力とかにかかわる実質的なドトーというよりは、父の妻であることの根元的なドトーだったのではなかろうか、と思う。

言ってみれば、母は、「父専業」主婦みたいなものだった。

察するに、ささいな怒りがたちまち思想や文学観に変換されてしまうような難儀さが、父と母の間にはあったのだと思う。だから二人は、仲が良かったというよりは、関係が深かった、というほうが正しい気もする。たとえば父の虚実に関して、私たち家族には故意に無関心だったところがあるわけだけれど、その家風は母が率先して醸していたとも思われる。

そもそも青春時代とは、保守中庸の道を歩ませようとする親への反抗を原動力として突っ走るものであるはずなのに――私は突っ走った父に先回りされ続けて沈滞していた。それでいわゆる反抗期に私が考えていたことは「私はぜったい普通のOLになって、普通のサラリーマンと結婚して、玉姫殿とかで結婚式をあげて、花束贈呈してやる……」というものだった。

井上光晴の「文学伝習所のこと」より

趣意書にも明らかにしたように、文学伝習所の目的は「他者の自由をよろこび、不幸を感じるこころ」を決してはなさぬところにおかれている。それこそが文学の根底における優しさであり、人生の感動と芸術をひとつの魂として把握する作業なのだ。

荒野の長編小説『もう切るわ』の題名の由来も、本書を読むと明らかだ。

また、井上光晴に関するドキュメンタリー映画「全身小説家」の面白さは、pipi姫さんのサイトをご参照。(こちら

そのDVDの情報はこちら→アマゾンへGO  

『ひどい感じ――父・井上光晴』 井上荒野 講談社 2002年発行
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コメント

とみきちさん、こんにちは。
先日、この本を読んだばかりだったので、
記事をとても興味深く拝見致しました。
印象的な箇所を読み返しながら、うんうんと頷き、
特に“母は、「父専業」主婦みたいなものだった”というのが、
的確な表現だったなぁ…と、思い出させていただきました。
また、訪問させてください。今後も宜しくお願い致します。

投稿: ましろ | 2005年10月22日 (土) 14:35

>ましろさん

こんにちは、いらっしゃいませ。トラックバックとコメントをありがとうございました♪

井上荒野はこの時期にまとめて読みましたが、それ以来、離れてしまいました。書き続けているようですよね。「父親」というテーマを掘り下げるのか、別のテーマを見つけるのか、どちらなのかな、というところに興味があります。

投稿: とみきち | 2005年10月22日 (土) 20:27

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 “娘が紡ぐ父の物語”である、井上荒野・著『ひどい感じ 父・井上光晴』(講談社、講談社文庫)。小説家であった亡き父に纏わる様々なエピソード。それらは、至るところに愛が満ちていて温かである。ユニークで憎めなくて、ただ1人の魅力を放ち、たまらなく愛しさを覚えるその... [続きを読む]

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