『麦ふみクーツェ』 いしいしんじ
とても豊かな物語でした。読み始めたときに、面白そうという予感がしたけれど、想像をはるかに超えた豊かさでした。「ぼく」は小学生に入ったばかりの頃、初めてクーツェに会った。それはある夜のこと、「とん、たたん」という音がして窓の下を見ると、運河があるはずのそこには、「黄色くだだっぴろい土地が、えんえんとつづいているばかり」で、玄関先には「へんてこな身なりのひとがいて、足元の土をふんでいる」。それがクーツェだった。
「ぼく」のおじいさんは、音楽が大好きで大好きで、まちの人を集めてアマチュア・ブラスバンドを仕切り、自身はティンパニを担当しつつ、アマチュアにあるまじき厳しさで、皆に稽古をつけるのだった。「ぼく」のお父さんは学校の先生なのだけれど、素数に取り付かれ、数学の証明に心を奪われている変わり者。
ぼくは、異様に背が高く、クラスの中でもはみだし者だった。おじいちゃんとお父さんと三人暮らしをしていた。ネズミ退治ができるほど上手に猫の鳴き真似ができるので、皆から「ねこ」と呼ばれていた。音楽の才能があることがわかり、一人で音楽学校に通うことになる。
それから先、ねこは、多くの風変わりな経験や才能を持つ人たちと出会い、音楽とは、音とは、見ることとは、聞くこととは、ということを少しずつ学んでいく。その風変わりな出来事は意表をつく面白さ。そして、登場人物はみな、心に傷や哀しみを抱えている人たちばかり。
栗田有起が文庫本のあとがきを書いている。
少年は青年へと成長する段階において、しかるべき場所でしかるべき人物と出会い、しかるべき経験を重ねてゆく。それらは運命と呼ばれるものである。運命を受けいれていくほどに、彼はじぶんが何者であるか理解するようになる。そしてその理解のぶんだけ、おのれの才能を捧げる。音楽へと近づいてゆく。徐々に徐々に、彼は音楽の核心を成すものへ近づき、やがて、彼自身が音楽そのものとなる瞬間を迎える。
そのとき、それまでは負担でしかなかった、家族から受け継いだ、才能や、大きな体つきやらが、一生をかけて愛すべきものとなる。与えられていたにすぎなかったものが、じぶん自身の意志により選びとった役割、へと変わる。
そうそう、こういうお話なのだ。確かにビルドゥングス・ロマンなのだ。でも、例えば町中にネズミが降り続けるとか、目が見えないのに、いえ、目が見えないからこそ超人的な動きのできる元ボクサーとか、変人代表といった感じの天才チェリストだとか、用務員さんが作曲した曲が「すべてはてこところのおかげ」というタイトルだとか、荒唐無稽な材料がちりばめられていて、ぜーんぜん、「人の道」を描いた本という感じはない。
設定は荒唐無稽だけれど、例えば安易に魔法を使って場面を展開させるというような、幾らでもパターンがつくれるファンタジーに逃げていない。「ねこ」は終わりのない冒険をしているのではなくて、一度きりしかない人生を確かに生きている。彼が自分を理解し始めて、クーツェの本性にたどりつくまでの後半は、たいへん感動的。
長編ではあるけれど、読書好きであれば、中学生から読めるかな。大人も子どもも読むに耐える「文学」だ。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/21746/7355240
この記事へのトラックバック一覧です: 『麦ふみクーツェ』 いしいしんじ:
» 麦ふみクーツェ/いしいしんじ [陸前と名のつく町で育った私を]
主人公は本物の猫よりも猫らしく「にゃあ」と鳴くことのできるとても大きな体の少年。
音楽にとりつかれたティンパニ奏者の祖父と、素数にこだわり研究を続ける教師の父と暮らしている。
いしいしんじの持ち味であるあたたかな風景や、平凡だけれどおかしみのある人々...... [続きを読む]
受信: 2005年12月17日 (土) 17:55
» 「麦ふみクーツェ」 [COCO2のバスタイム読書]
クーツェは足ぶみにあわせうたうようにつぶやく。ーーいるといないとは、距離のもんだ [続きを読む]
受信: 2005年12月30日 (金) 17:01
» 麦ふみクーツェ いしいしんじ [風味絶佳な日々―読書日記―]
『麦ふみクーツェ』 いしいしんじ 2003年第18回坪田譲治文学賞
(「BOOK」データベースより)
音楽にとりつかれた祖父と、素数にとりつかれた父、とびぬけて大きなからだをもつぼくとの慎ましい三人暮らし。ある真夏の夜、ひとりぼっちで目覚めたぼくは、とん、たたん...... [続きを読む]
受信: 2007年11月 9日 (金) 21:42





コメント
家守綺譚の書評を書いていて、ぶらぶらと他の方の読書サイトをめぐっていて見つけました。
この人とは、きっと趣味が合うだろうなぁ。と、この麦踏みクーツェの感想を読んでおもったので、つい、コメントしてしまいました。
投稿 nocchi | 2006年6月10日 (土) 22:49
>nocchiさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
サイトを拝見しました。自転車好きなんですね。偶然ですねー、私も学生時代は自転車旅行をしていました。
いろいろな本を読まれていますね。文芸小説とエンタメ系がお好きなのかな? 何か面白い本があったら教えてくださいね。
投稿 とみきち | 2006年6月11日 (日) 00:19