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2006年9月11日 (月)

『美の死』 久世光彦

美の死
美の死
posted with 簡単リンクくん at 2006. 9.11
久世 光彦著
筑摩書房 (2006.3)
通常2-3日以内に発送します。

久世光彦の本はこれまでいろいろ読んできたのだが、このブログを始めてからは一冊も読んでいなかったとは驚き。数年前だったか、森繁久彌について、声をかけると何でも喜んで「やる、やる」と言うから困る。自分が演出する仕事でモリシゲの面倒を見るのはもう勘弁してくれ、なんていう話をどこかでしていたが、そのときに既に体調が芳しくないと言っていた。結局、モリシゲよりも先に亡くなってしまった。

本書には「ぼくの感傷的読書」という副題がついている。泣いたり、弱みを見せたりすることを一種のスタイルとしているかのような久世にぴったりのタイトルだ。自分でつけたのか、編集者がつけたのかはわからないが、「ぼくの」って、一体あなたは何歳なのでしょう? と言われたって、痛くも痒くもない。ぼくはぼくなんだから。「感傷的」という形容詞にしたって、マイナスの意味で使ってなどいない。確信的に「感傷的」なのだ。男は弱いものなんだ。弱くて何が悪い。俺はダメ男だ。少女趣味的な感性もあるし、退廃的なものも好きだ。そういう好みの何が悪い。ある意味で、開き直りの人だと思う。それは逆に強さでもある。

取り上げられている書は、新旧取り混ぜて多岐に渡るが、久世の好きな作品あるいは好きな作家の作品であることだけは間違いない。書評を書くことについて、久世はこのように言っている。

人のことは言えないと、いつも自分を戒めながら、ついつい面白くて〈書評〉を書いて十年になる。人のことを書くのは、面白いことなのだ。会ったこともないのに、その人と親しくなれるような気がする。ほんの少しだが、その人の肌に触れたようにも思う。だから私は、解説はしない。筋も書かない。私は〈書評〉で、その人に熱心に話しかけるだけだ。――それもどこかで、余計なお世話をやいているような、後ろめたい気持ちが残るので困る。

「後ろめたい気持ち」と書いて、自分の立場に必ず留保をつけてみせるのが久世の特徴。自信がないんです、いや、これが正しいというわけじゃなくて、「ぼく」はこういうのが好きなんですけど、いや、恥ずかしい、といったスタンス。しかし、書いていることは鋭いし、意地悪なこともあるし、自己顕示的なところもかなりある。声高に何かを言い張るのは、久世の美学が許さないのだろう。弱々しく、正面からではなく、横ちょから、ぼそぼそと言う。短いエッセイほど切れ味が良く、久世の感性と、評される本のエッセンスとが激しくぶつかって読み応えがある、と私は思う。それから、筋を書かないなんていうのは実際には無理な話。読んでみると、もちろん筋の紹介も、必要最低限はなされている。

久世の持つ幾つかのスタイルの一つ、身体感覚を多用する書き方が端的に表われているのは、例えばこういう文章である。高樹のぶ子の『透光の樹』の書評、タイトルは「匂いたつ言葉たち」

高樹さんには会ったこともないが、もしこの人が私の窓の下を通りかかったら、きっと私はすぐにこの人とわかるだろう。わかって腰が浮くだろう。それは、たぶん匂いのせいだ。たったいま男のベッドから抜け出してきた女の匂いと、懐かしい清潔な印刷インクの匂い――思い出してみれば、こんな思いに駆られるのはM.デュラス以来のことだ。そして私は、突然、ほんの半年の間でいいから、女になりたいと希(ねが)う。女になって『透光の樹』の千桐の気持ちと〈性〉を、そのままに追体験してみたくなる。(…中略…)文芸というものは、ときに男を女にし、女を男にしてしまうらしい。

本書を読んで、今すぐにでも読んでみたいという気持ちになった作品は二つ。小島政二郎の『眼中の人』、そして内田百閒の『サラサーテの盤』である。そして、最も鋭く、魅力的に紹介されていた作家は、小林秀雄だと思う。

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