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2006年11月

2006年11月 1日 (水)

『蕭々館日録』 久世光彦

大正時代の文士たちを配役に仕立てた、久世ワールド。著者の大正時代へのオマージュでもあり、芥川龍之介に対する愛の発露でもある。ときは大正時代の終わり、場所は本郷弥生町の坂の途中にある蕭々館、すなわち作家小島政二郎(小説内では児島蕭々)の自宅である。屋号を「蕭々館」と命名したその家には、夕刻近くになると、芥川龍之介(九鬼)、菊池寛(蒲池)をはじめ、美大の〈美学〉の講座を持つ迷々さん(『猫』の迷亭がモデル)、精神科医の並川さん、寄席通の金貸しの中馬(ちゅうま)さん、中央公論の駆け出し編集者の雪平さんなど、くせ者が集まっては、文学談義その他の四方山話を繰り広げる。

久世の美意識は、常に過剰なもの、奇矯なもの、尋常ならざるものに惹かれるきらいがあると思う。この物語の語り手は、児島蕭々の娘、麗子、5歳である。ふるっていることに、岸田劉生の描いた麗子像そっくりの風体をさせられたこの娘は、母親の代わりにお酌をし、父親たちの議論を聞きながら、驚くほど的確な論評を加えて、読者に向けて語るのである。その役回りはさしずめ、『吾輩は猫である』の猫である。

近所に住む比呂志くん(芥川の息子の本名と同じにしているのは意図的であろう)は、知能が発達しすぎている6歳の男の子で、頭を使わないと脳の重みで頭ががくんと垂れてしまう。そして、大人と一緒に議論をしたり、難しい問題を解決しようとして頭を使うと、脳が軽くなってシャキッと真っ直ぐになる。こうした人物設定は、過剰や奇形に色気を感じる久世のお得意とするところ。

あたしは父さまと母さまに一人だけ可愛がられて、身勝手で自分のことしか考えない、驕慢な女になっていくのだ。でなければ、女に生まれた甲斐がない。――口に出さないだけで、世の女の子はみんなそう思っている。

だからあたしは、茶の間の炬燵の転寝(うたたね)に、思い切り驕慢な夢を見た。――あたしの足元に、痩せた鬼みたいな九鬼さんが、裸で這いつくばっている。ゼイゼイ咽喉を鳴らして喘ぐ度に、九鬼さんの肋骨が浮いたり沈んだりしているが、あたしは少しも可哀相だと思っていないらしい。九鬼さんはあたしに、燐寸を下さい、燐寸を下さいと哀願しているのだが、あたしは九鬼さんの燐寸がたくさん入ったカステラの箱を、頭の上に捧げ持って、燐寸を上げない。

「あなたの傷んだ体は、もう煙草を受け付けないはずです。それなのに、どうして燐寸が欲しいのですか?」

「火を点けたいのです」

「何に?」

「――世界に」

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