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2007年4月17日 (火)

『翻訳家の仕事』 岩波書店編集部編

たいへん面白かった、いろいろな意味で。一つは、言葉を訳す作業の一つである翻訳と、私が仕事にしている反訳(テープ起こしと言うとわかりやすい)とが類似している点があるので、「そうそう、おっしゃるとおり」と思いながら読めたことがある。

さてさて、まえがきによると本書は、2003年5月から2006年5月までの37回にわたって雑誌「図書」に連載された「だから翻訳はおもしろい」をまとめたものだそうだ。37人の翻訳家による翻訳にまつわるエッセイの集積。読んでいるうちに、本が読みたくてむずむずする。

エッセイとして感動的だったのは、伊藤比呂美の「ビリー・ジョーと同い年でした」。これを読むと彼女の天職が翻訳ではないこともよくわかるのだが(根っからの表現者)、詩人である彼女が、「言葉」というものがどれほど大きな力を持っているかを知ったうえで、言葉に思いを託した経験が綴られている。

翻訳と反訳の類似というか、その気構え、心構えといった点で共感したのは、沼野充義の「不自由の果てへの旅」のなかの一節。

当たり前のことだが、翻訳には原文があり、翻訳家はこの原文に縛られた奴隷である。小説家のように自分の思いつきを好き勝手に書くわけにはいかない。そして、訳者の仕事は、原文の意味と調子をとことんまで見極めることだ。たかが外国語を読むぐらい、と侮ることなかれ。「とことんまで見極める」のは、時に男子の、いやもちろん、女子のでもあるのだが、一生をかけるくらいの覚悟が必要となる。しかし、見極めた後にはおそろしいほどの自由が広がる。「ここまで読み切った以上、それをどう訳すか、日本語でどう表現するかは、訳者の勝手だ!」という夢のような瞬間が――残念ながら、それはめったに訪れないけれども――私を翻訳に惹きつけるのではないかと思う。

話し手の日本語は、話し言葉であるがゆえになおさら完璧ではない。その意図を見極めた後には、反訳者は「これをどんな書き言葉にするかは反訳者の勝手だ!」と思いながら、書き言葉に書き起こす(こともある)のである。

ニュアンスは少し違うが、鈴木道彦も同様のことを言っている。ヴァレリーの、夢は要約ができるから、詩よりもむしろ散文に近い。そして、[要約ができる]小説は主要なものを失わずに翻訳できる、と言った主張を引いたあと、「ヴァレリーは(中略)原作と同じものが作れると言ったわけではない。むしろ私は、原作と違うからこそ、そこに翻訳の可能性や意味が生まれるのだと考えている」と書いている。

さらに、

ただし、その場合に、次の二点が重要だ。一つは原作に対する絶対的な敬意と愛着である。(略)その愛着を前提にした上で、なおかつ翻訳が可能になるためには、第二に、原作もまた絶対窮極のものではない、と考える必要がある。もし指一本ふれることもできないほど完璧な作品なら、それを解体してまるで異質な言語に組み替えることなど、恐れ多くてできるものではない。その意味で、すべての翻訳可能な言語は、マラルメの言うように不完全なものだろう。いわば翻訳者は、愛情をこめてどこまでも原作に近づこうとしながら、必ず原作を相対化するのである。

と続けている。この「相対化」の作業なしには翻訳も反訳も成り立たないと思う。絶対的な一つの意味だけをもつテキスト、絶対的な一つの解釈だけしか許さない講演、そういう発想で言葉というものを捉える人には、言葉を扱う仕事は向いていないだろうと思う。

同じものを翻訳しても、翻訳家によって全く違う出来上がりになることは、誰が考えてもわかるのに、同じ語りを文字に起こしても、絶対的な正しい起こし方があるかのように考える人が世の中に多いのは、少々困ったことなのである。

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