« 『読書の腕前』 岡崎武志 | トップページ | 『人格障害の時代』 岡田尊司 »

2007年4月12日 (木)

『本よみの虫干し ―日本の近代文学再読―』 関川夏央

谷口ジロー・画、関川夏央・原作の『「坊っちゃん」の時代』(全5巻)は、傑作であり、本好きであれば必読書だと思う。啄木や漱石、鷗外等々が生きた時代を、微細に描き、現代と地続きにした。彼らは遠い昔の文豪ではなくて、血肉をもって、今よりほんの少し前の時代にリアルに生きていた人々であったことが伝わってきた。関川は、時代の中で文学や文学者を捉える人であることが、この漫画(と言っていいのか)を読むとよくわかる。

さて、 本書も同様の立ち位置から、日本の(日本の作家に影響を与えたという意味で、海外の小説の紹介も多少含まれる)小説を再読して書かれた短いエッセーの集積である。岡崎武志とは異なり、関川は文学を諸手を挙げて信用して生きてきたわけではない。むしろ文学嫌いであった、とまえがきに記している。ところが文学がおもしろいと思うようになるきっかけがあった。

七〇年代に山田風太郎作品に出会い、八〇年代に司馬遼太郎、藤沢周平などを読んで考えを改めた。文学は「私」なしでも成立するのである。物語もまた文学なのである。そうして、文学を「鑑賞」しなくてもいいという発見は新鮮であった。まさに救いであった。そんな視線で読み直すと、うっとうしいと思われた文学も意外におもしろいのである。

そうは言いながらも、あとがきでは、「本は、人に考える種を与えて無為の時間を埋めてくれはするが、人を幸せにするわけではない」などと嘯く。そんな著者が、「できる限り現代人の視線から離れて、また戦後人特有の見方から自由に、と心がけ」て、1890年代からいわゆる戦後が終わる1970年代までの本を読み起こしたのが本書である。あとがきから結論を先に引いてしまうと、

近代文学のテキスト再読の感想は、第一に、どれもみなその時代の思潮と経済のただ中に生きた悩みと喜びの文芸であり、また試みの記録であるということだ。

 第二に、日本人はこの百年、おおまかにいって、自意識と結核と金銭と戦争と異文化接触を、いわばらせん状にえがきつづけてきたということだ。そしてそれら日本近代の主題は、かたちをかえていまも有効である。

例えば著者は、『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』(ラディゲ著、1923年刊行)の日本での受け入れられ方について、次のように分析する。

大正期後半以後、なぜか「日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動に駆られる」(三島由紀夫)ようになり、自分がいかに「純粋さゆえに」背徳的であるか、「やむを得ず」悪人であるかを、第一人称で語る卑下自慢が流行した。

だからこそ逆にラディゲの、「男女の心が将棋の駒のように動き、象牙と象牙のかちあう乾燥した音」(ティーボーデ)が聞こえるような人工的完成度の高い小説、そしてまた「その中で作者は少しも告白をしていない」「すべてが虚構に属する小説」(堀辰雄)が日本の文芸界に衝撃を与え、横光利一など「新感覚派」を生んだのである。

このあと、戦後まもなくラディゲブームの再来がある。そのきっかけは、ジュラール・フィリップ主演映画『肉体の悪魔』の1952年公開であることを否定しないまでも、

より本質的には、戦後の青少年の精神の深層にいまだ、文学と天才と夭折は無垢で、世の中と凡人と健康は不潔と談ずる大正以来の空気が底流していたからである。その意味で、戦前という時代は戦後にも絶えなかったのである。

と言い切ってしまう。著者の大正時代への注目は、前出『「坊っちゃん」の時代』に明らかなのであるが、大正期以来の日本近代文学を「青年の文学」と明確に位置づけているのは本書の特徴の一つである。

本書の特徴をあらわす代表的な一篇は、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(1936年)について書かれた「戦前の山の手のコドモたち」である。本書を読んだ丸山眞男が「これはまさしく『資本論』ではないか」と書いたこと、16歳の鶴見俊輔がハーバードの哲学科一年生のときに読み、「そのころ私は西洋哲学者の名著を毎日たてつづけに読むなかで」「(それら名著に)少しもおしまけず、それらをまねするものとしてでなく、この本がたっていると感じた」と書いていることを紹介している。

そして、著者自身が本書をどのように読んだのかということも記す。初めて読んだときは自身が時代にとらわれた中で読んでいたことを、今になって知る。そして、時代から自由になった(なろうとする)立場で読み直し、改めてその本に描かれた時代性を確認するのである。

そして関川は次のように結んでいる。「私は、晩秋から早春にかけての東京を、コペル君たちによってつくられた戦後とは何であったかと、多少苦い味わいのする思いを噛みしめながらだが、ようやく嫉妬心から自由に、存分に味わった気がする」。(文中の「コペル君」は吉野の作品の主人公である)

著者の視野が水平方向にも鉛直方向にも広がっているため、語られる本や作家の立ち位置の見通し、風通しが良い。さらに、「文学嫌い」の経験をもつために、いわゆる文学好きの押しつけがましさ(我が身を棚に上げて言うが)もない。そのため、非常に読みやすい文学案内になっていると思う。文学好きが文学への信頼を前提に書いた文章とはひとあじ違うのだ。そして、懐疑的にアプローチしていき、作品の中にどっぷりとつかりきって鑑賞することを拒絶しながら文学作品とつき合う著者が虫干しにしたいのは、「本よみ自身」なのだそうだ。

『坊っちゃん』の時代
関川 夏央〔原作〕 / 谷口 ジロー〔画〕
双葉社 (2002.11)
通常2-3日以内に発送します。

|

« 『読書の腕前』 岡崎武志 | トップページ | 『人格障害の時代』 岡田尊司 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/21746/14652962

この記事へのトラックバック一覧です: 『本よみの虫干し ―日本の近代文学再読―』 関川夏央:

« 『読書の腕前』 岡崎武志 | トップページ | 『人格障害の時代』 岡田尊司 »