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2007年6月25日 (月)

『海』 小川洋子

粒の揃った短編集です。小川洋子は短編が巧いです、本当に。雰囲気だけを描いてわかってもらおうとしていません。しっかりとした情景描写に裏打ちされているので、短い文章でもくっきりと映像が目に浮かびます。そして、そこにはお話がきちんとあるのです。

口の聴けない少女も出てくるし、コミュニケーションが成立しない老人も出てきます。生い立ちが恵まれていないティーンエイジャーが出てきます。何かの障害を抱えた人も出てきます。でも、小川洋子の作品の登場人物たちは、自分が置かれた境遇に疑問や不満を感じません。与えられた状況に、何の偏見も先入観ももたずに、自分の持てる力を最大限動員して対処しようとします。その自然さ、素直さ、しなやかさに、心が洗われる気持ちがするのです。

わかりやすい例を挙げると、『博士の愛した数式』のルート君がそうでした。本短編集では、『ガイド』という作品の主人公の少年がそうです。少年ばかりではありません。大人の男性の主人公も、奇妙な人に出会ったとき、その人を値踏みすることはありません。そのままそっと受け入れます。相手の流儀を確かめながら、これでいいかな? と少しずつ距離を縮めてコミュニケーションを図ります。上質な心の持ち主たち、私にはそう感じられます。相手の在り方を尊重し、心が通い合うまでじっと待つ、あるいは相手の言葉に口をはさまずに耳を傾けることを、いともたやすくやってのけます。でも、それは本当はとてもとても難しいこと。私はそう思うのです。

『ひよこトラック』の主人公は、小さな町にただ一つあるホテルに勤める定年間近のドアマン。七十の未亡人と六歳の孫娘とが住む一軒家の二階を間借りしている。その孫娘は、五歳のときに母親が死に、祖母である未亡人が引き取ってから、一言も口をきかなくなったという。その子と主人公の男が、言葉を交わさずに交流していくさまが、なんともいえず心にしみる。そっと見守っていたいと思う。

セミの次に少女が持ってきたのは、ヤゴの抜け殻だった。(中略)圧巻はシマヘビの抜け殻で、直径二センチ、全長は五十センチもあり、それ一つで窓辺のスペースの半分近くを独占した。日に日に窓辺の抜け殻コレクションは充実していった。

少女はそれらを眺め、満足そうな表情を見せた。二人は時折一緒に、窓辺の時間を過ごすようになった。少女はコレクションの前にぺたんと座り込み、男はその折々で、手持ち無沙汰に立っていることもあれば、彼女のためにジュースを注いでやることもあった。

 最初のうち男は、こんなにも年の離れた、しかも喋らない人間と、どう間を持たせたらいいのか戸惑ったが、すぐに要領をつかんだ。つまり、抜け殻を眺めていればいいのだ。それで二人には何の不足もなかった。

この「男」もとても上質な人間だと思う。何の希望も喜びもないような人生を送っているように見えて、実はとても繊細で優しい心を持っている人を描いていること。それは確かに、他の作家の作品にはない小川洋子の小説の魅力の一つ。

口をきかない少女が抜け殻を持ってやってくる。その意味がわからず、戸惑いながらも、理解しようと努める。相手を問いつめることもなく、嫌な顔をして拒否することもなく。そうして二人のあいだに、静かな共感が生まれていき、彼にとって大きなサプライズとなるラストシーンにつながっていく。このシーンがとても映像的で、短編のエンディングとしてもすばらしい。

上質の短編集。既読の小川洋子の作品の中で最高傑作かも。

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