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2007年8月19日 (日)

『もののはずみ』 堀江敏幸

まことに贅沢な本です。35文字×29行=1015文字。400字詰め原稿用紙3枚にも満たないエッセイの集積。テーマは「多情心」。あとがきから引用いたしましょう。

こんながらくたばかり集めていったいなんの役に立つのか? 社会的には、もちろんなんの役にも立ちはしない。手に入れた「もの」をなにかに用立てようなどと考えた時点で、真の「物心」を失ったも同然だからである。

(中略)

実際に使っている「もの」も、見ているだけの「もの」も、特定の生活空間に呼び込まれてはじめて息を吹き返す。ずっとそこに置かれたままで力を発揮する場合あれば、あちこち移動し、隣りあうなにかとの関係のなかで、それまでの自分にはないあたらしい文脈を発見していく場合もある。彼らのしずかな変幻を見守ることも、「物心」のおおきなはたらきのひとつなのだ。つまり、「仏心」ならぬ「物心」とは、「もの」を買ったり愛でたりすることと、かならずしも一致しないのである。どんなにありふれた量産品でも、それが最新であった時代の役目を終え、廃棄されるかわりに生き延びようとするとき、他のだれかのもとではなくこの自分のところにやってくることになったいくつもの偶然の重なりと、そこに絡んでいた人と人とのつながりをこそ、「物心」あらんと欲する私たちは愛するわけで、もしかすると、「物」じたいより、背後にあるさまざまな「物」を語ることのほうを、物語のほうを大切にしているのかもしれないのである。

たいへん長々と引用してしまいましたが、この文章は、堀江氏にしては珍しく説明的です。この一節は、堀江氏の「物」に対する態度ばかりでなく、人生に通底している一つのあり方を端的に示しています。

迷うこと、ためらうこと、横道に入ること、計画的ではないこと、結果がわからないまま行動すること、目的は達成されるためにあるとは考えないこと、合理的ではないこと。堀江氏のあり方を説明しようとすると、こんな形容詞が次々と頭に浮かびます。およそ現代的ではない、徹底的なアナログ人間なのですね。

そんな堀江氏がさまざまな「物」と出会います。その出会い方、売り主との交渉の仕方、手に入れてからの喜び方、飾り方、その「物」の来し方行く末をあれこれと思うときの楽しさが、巧みな文章と、意外性のあるエピソードなどとあいまって、本当に贅沢で、かけがえのない一つの物語が出来上がっているのです。それぞれの物語に一葉ずつ添えられている、モノクロの、ややピントのぼけたような写真が、雰囲気があってとても良いのですよ。

「空気が一変した」の最後の部分を紹介します。古物市の一角のおじさんは、まるでホームレスの人とほとんど風采が変わらないほどでした。

ところがそのおじさんのスタンドには、「物心」が満ちあふれていた。けっしてきれいではないけれど、隣り合って置かれている「もの」たちのバランスが絶妙なのだ。思わず引き込まれて見入っていると、黄ばんで紙の剥がれかけた二十世紀初頭の黄ばんだ地球儀の横から、それにぴったりの薄汚いダックスフントが首をかしげてこちらを見ていた。するとおじさんは、ちらりと私に眼をやって、犬か、地球儀か、と訊いてきた。犬です、と応えると、彼はなにも言わずに立ちあがり、奥の箱からべつの犬を出してきて、そっと横にならべた。

 空気が一変した。彼らはまるで、幼稚園の頃からの友だちみたいにたたずんでいた。

こういう時間を楽しむ人なんです。だからこそ、ああいう小説が書けるんですね。一つの単語から別の単語が連想された途端、そのままその連想の世界に没入してしまうとか、文房具店である文房具を見かけたばかりに、それにまつわる記憶が脳裏によみがえり、現実の用向きを忘れて、その記憶を辿る旅に出てしまうとか、そんなふう。彼の書く小説は、小説なんだか、エッセイなんだか、旅日記なんだかわからないと言われます。しかし、もともと本人がそういう人なのです。なおかつ、そういうものを書きたいと思って書いているのだから、そういう作品になるのは当たり前、なのです。

好きな物について書くとき、好きな本について書くときの堀江氏は、自分だけが見つけたその物や本の持つ良さを書いてくれるから、読んでいて楽しいのですね。すなわち、一般的な評価、客観的な価値を伝えるためにペンをとる人ではない、とも言えます。決してオピニオン・リーダーにはならないでほしいな~。彼の意見は、この消費社会の中でも消費されないだけの価値を持つから、そんな心配は無用でしょうね。

枕元に置いて、ランダムに開いたページを一篇か二篇読む。そんな読み方が似合う本かもしれません。お勧めです。

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