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2007年12月20日 (木)

『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』 田中森一

石橋産業手形詐欺事件で、2002年6月、東京地裁で懲役4年の実刑判決を下された田中は、東京高裁に控訴。それに対して東京高裁は2006年1月31日、一審の懲役4年を破棄し、懲役3年の判決を下した。本書は、現在、上告中の田中が書き下ろした、自身の半生を振り返った書である。同時に、日本のバブル期の総括になっているのが見事。

人はたいがい、何かに挫折したときに人生を振り返る。著名人であれば、それはたいがい出版されて話題になる。私が最近読んだ、佐藤優の『国家の罠』、天木直人の『さらば外務省!』もそうだし、本書もそうである。その著者が権力の座に近い人であればあるほど、その内容は、一般国民には知り得ない裏舞台の話が書かれていることが多いので、それだけでも面白い。

しかし、この手の本のポイントは、自身の力、生き方、価値観を疑うことなく突き進んできた人が、それまでの自分の生き方は間違っていたのだろうかと自問するなかで振り返るその過程が、読者の心を揺さぶるものがあるかどうか、なのだと思う。そういう手触りが感じ取れれば、読者は感動し、筆者の再生を願う気持ちになるのである。

佐藤優の本も、本書も、己に一点の恥じるところはないと書きながら、しかし、どこか間違っていたのだろうか、と自問している。一方、天木は、そうした振り返りのないままに、「悪いのは小泉だ、官僚組織だ」と書くばかり。そこに大きな差があるだろうと思う。

本書の著者、田中森一は、自身の貧しい生い立ちから書き起こしている。進学などまかりならぬ、早く自分を継いで漁師になれ、と頭から決めつける父親に隠れて、そろばんを習い、受験勉強をした十代。苦学して司法試験を受けようとしていたころ、生活を支えてくれた妻。検事は天職だと感じていた時代。母を引き取るためにお金も欲しいという頭もあって、検事をやめて弁護士に転身したときの話。弁護士に転身してお金をもったらろくなことにはならないと言って、離れていった妻のこと。

彼は、自身の共感が、貧しい人、差別を受けている人にあると自覚している。裏社会の人間に魅力を感じるとも書いている。そして、狂乱のバブルの時代、金銭感覚が全くなくなるほどの金額のお金が手に入り、その使い方も知らずに浪費し、バブル崩壊とともに躓いていく人たちの道連れになるような形で、彼自身も墜ちていく。

法律に反したことをしていないという自負はあったにしても、法の抜け穴をかいくぐり、荒っぽいことをやっていたという自覚もある。弁護士というのは、依頼人のために活動し、報酬をもらうのが仕事である。しかし、何をやってもいいということではない。あげく、検察の恨みをかってしまって、検挙される羽目になる。

日本の刑事事件が無罪になる率は、限りなくゼロに近いという現実に、起訴されて初めて直面する。同じ人間であっても、立場が変われば、一つの現実の見方が全く変わる。「真実」というものは、万人にとって同じものではない、ということがよくわかる。

検察について、なるほどと思わせられたのはこの部分。

平和相互銀行事件、三菱重工CB事件、そして苅田町事件――。どうにも釈然としない、腹立たしい顛末ばかりだった。なぜ、検察最強の組織である東京地検特捜部が、まともに事件にできないのか。

検察庁は、同じ司法界の組織であっても、行政機関から独立している裁判所とは、そもそも性格が違う。検察は法務省の一機関であって、日本の行政機関の一翼をになっている。だから、事実関係と証拠関係だけで判断できる裁判所と違って、検察は行政組織として国策のことも考えなければならない。しぜん、時の権力者と同じような発想をする。実際、検察エリートは国の政策に敏感だった。

しかも、当時の検察上層部は本庁の法務省の官僚を長年務めた者が大半。本来、検事ではなくて官僚。松尾前検事総長もずっと法務省にいて、現場の捜査などはほとんど経験していない。財務省の次官が検事総長になったようなものだ。権力者の発想になるのは当然だともいえる。そのときの国の体制を護持し、安定させることを専一に考える。だから、そもそも検察は、裁判所に較べると、はるかに抑止力が働く組織なのである。

その抑止力が働きすぎると、マスコミから政治的な圧力があったのではないかと批判されるが、実態は違う。時の権力と同じ発想で捜査を指揮するから、国益に反すると判断すれば内部で自制する。それがマスコミには腰砕けになったように映るのだろうが、その多くは、自発的に捜査をやめるのであって、圧力によるものではない。

裁判官には共産党的な左志向を持つ人も少なくないが、検察官には、そんな人間は一人もいない。被疑者には人権がある、などと本気で考えている検事もいない。検事はみな傲慢であり、被疑者に対しては、「俺が権力だ。俺の言うことを聞け。呼び出されたら、何をおいても、ハイッと言って馳せ参じて来い」という発想である。こうした傲慢さは、霞が関の官僚全体にあるが、検察官はことさらその傾向が強い。

最近、「国策捜査」という検察批判がよくなされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針はすべて国策によるものである。換言すれば、現体制との混乱を避け、ときの権力構造を維持するための捜査ともいえる。

たいへん長く引用したけれど、特捜部のやり手の検察官であった田中が書く検察とはこういうものである。「国策捜査」の話は、鈴木宗男、佐藤優の逮捕を念頭においた発言であろう。検察が一度、「この人物を挙げる」と決めれば、その人物は100%罪人になるのである。

引用ばかりになるが、本書は次のようにまとめられている。上記部分とあわせて読むと、本書が、起訴されたことをきっかけに自身の生きざまを総括しようとしている人間の書いた書であることが理解できると思う。人間には善人と悪人がいるのではないという考え方が、この人の基本の思想にあることは本書全体から伝わってくる。それゆえ、人を恨んだり、また、蔑んだりするような視線がなく、読んでいて嫌な気持ちにならないのである。

付け加えると、この人の文章は、非常に整理されていて読みやすい。

当たり前のことだが、人間の心のなかには誰しも神と悪魔が共存している。その濃淡が異なるだけだ。普通の人間は、うちに潜む悪魔を押さえ込みながら、生きている。悪魔が表に出れば、罪を犯す。ただそれだけのことだ。そんなことは理屈ではみなわかっているが、実際にはそうはならない。それを肌で感じてきた。

しかし、私は、幼いころの貧乏暮らしや検事時代の犯罪者に接してきた経験から、自分だけは一線を踏み外すことはありえない、と自負してきた。弁護士になってからも、政治家から財界人、裏社会の住人たちにいたるまで、数多くの人間の相談に乗り、なおさらその自信がついた。そして、私なりに、世間から非難されている人間を改めて評価してやりたい、そういう思いがあった。

 だが、本当にそれができていたのだろうか。それをいま考えている。

(中略)

この国は、エスタブリッシュメントとアウトローの双方が見えない部分で絡み合い、動いている。彼らはどこか似ている。エスタブリッシュメントと呼ばれるトップ階層から、アウトローと呼ばれる裏社会の住人にいたるまでの付き合いのなかから、それを感じた。

(中略)

表と裏の社会で、どんな思惑が絡みあい、なにが起きているのか。そこに触れることなく、彼らと付き合ってきた。いちど足を踏み入れると脱け出せないような、暗いブラックホール。その深淵に立ち、覗き込むことはあっても、足を踏み入れることはできない。検事時代に感じた上層部や政治家の圧力も、これと似ている。

闇社会の守護神、特捜のエースと呼ばれてきても、しょせんその程度だったのではないか、と正直に思う。日本という国に存在する、深く真っ暗い闇がそこにある。

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コメント

反転の内容をそのまま信じるのは危険。表に出ない詐欺事件多数あり

投稿: なおと | 2014年10月28日 (火) 13:07

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