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2008年6月15日 (日)

『シズコさん』 佐野洋子

新潮社の「波」、2006年1月号から2007年12月号に連載されたエッセイ。シズコさんとは、佐野洋子の母親である。本エッセイを書いている佐野洋子は、癌におかされている。確執の耐えなかった母親を見送り、今は自身が病におかされているこのときに、佐野洋子はひたすら佐野洋子のままであり続ける。裸の佐野洋子。その人間を見つめる目は、肉親であろうと、自分自身であろうと、何の曇りもなく、何の濁りもなく、余りにも真っ直ぐで、読んでいるこちらの心が痛くなる。

私が佐野洋子のエッセイが好きなわけは、佐野洋子が、そこまで正直にならなくてもいいのに、とこちらが心配になるほど正直で、倫理的な文章を書くからであった。彼女の選ぶ言葉は決して上品ではないけれど、人間としてこのうえなく品のある人だと感じさせるのだ。正しいことを声高に主張したり、きれいごとを人に押しつけたりするようなのを倫理的とは言わない(それは偽善的という)。

私が感じる彼女の倫理性とは、うまくいえないけれど、自身の限界や分をわきまえているがゆえに羞恥心を常に携えていること。そのうえで、断固として揺らぐことのない好き嫌いの基準に従って生きている人だと感じさせること。

この倫理性はいったいどこから来たのだろうか、と常々思っていた。他人を責めるわけでもないのに、すっと本質を見通して、見逃すことがない。その視線の矛先は、他人も、自身も、同様の鋭さで貫いてしまう。その鋭さが、潔く感じられて好きだったけれど、謎でもあったのだった。

本書を読んで、その原点がわかるように思えた。

母親が呆け始めて、同居が難しくなると、とてもとてもお金のかかる老人ホームに入れた佐野洋子は、「私は母を捨てた」と何度も書く。自分をこらしめるかのように。

幼い頃の両親との暮らしの記憶、弟たちの死、父親が亡くなってからの母親の変貌ぶり、母親といかに心が通わなかったのかを示すさまざまなエピソード、母親の優秀な主婦ぶり……それら過去の話と、だんだんと惚けて弱っていく母親の様子とが、行きつ戻りつ語られていく。

佐野洋子の筆は、母親のことであろうと、自分のことであろうと、何の遠慮も躊躇もなく、あからさまにその性質を描いていく。例えば、小さいときには知らされていなかったが、母には知恵遅れの妹弟がいたという。彼らの面倒は、母の次の妹、すなわち佐野洋子の叔母の家族が同居して見ていた。そして、佐野洋子は叔母の家から大学に通っていたことがある。

時々母が上京して来ることがあった。母は来て帰るまで、ずっとお客様をやっている。私と叔母は台所で働きながらこそこそ、「なんであの人どてっと坐りっぱなしで威張ってるの」「あっはは、あの人は偉いんでしょ、長女だから」叔母はよく笑う人だった。

夕食の時、家中が茶の間に集まる。すると母が叔母に「ねえこの人達どこかやって。もうごはんがまずくなる」と云った。私は仰天したが、叔母は「あんた達台所で食べなさい」と笑いながら云い、無口なキミちゃんはギロギロ母をにらんで立ち上がった。

 母にとって知恵遅れの妹弟は何だったのだろう。来ても二人に声をかける事は一度もなかった。この人には情というものがないのだろうか。そして叔母は情だけの人だった。

 私は母を母としてではなく、人として嫌だった。

このように、肉親のことをあからさまに書くことの苦しみを、何故あえて選ぶのだろうか。こういうところに、私は佐野洋子が自らに課している倫理観のようなものの厳しさを感じていた。

そして、母親のことが嫌いで、からだに触れることもできずにいた佐野洋子が、何かの拍子に触れることができるようになり(これは一大事件)、そして、思いもよらず、母親に対する嫌悪感が一気にとけていく瞬間が描かれる。その場面を引用してしまっては、余りにも余りにもなので、そのあとの文章を少しだけ紹介すると。

私はほとんど五十年以上の年月、私を苦しめていた自責の念から解放された。私は生きていてよかったと思った。本当に生きていてよかった。こんな日が来るとは思っていなかった。母さんが呆けなかったら、昔のまんまの「そんな事ありません」母さんだったら、私は素直になれただろうか。

佐野洋子の心の底に暗く渦巻いていた、母親を好きになれない自分に対する、石のように重たい重たい自責の念。その石が、心がとけ出し、母さんに対して普通の感情が働くようになり、母さんに会いに行くのが楽しみになり、自分がゆるされたのかもしれないと思えたその日まで、彼女の人生すべてに暗い影を落としていたのだろう。そのために、他人とは関係ない、彼女だけが持つ、厳しい人生の基準が、それまでに彼女が書くすべての文章の中に見え隠れしていたのだと思う。

私は「こころ」というものがあるなら、母さんに対してそれを麻糸でぐるぐる巻きに固く固く何十年もしばり込んでいた様な気がする。その糸がバラバラにほどけて、楽に息が出来て生き返った様な気がした。私はその間に乳ガンの手術をした。

ゆるされた気持ちに満たされた佐野洋子さん。これからもずっと、自由に、鋭くて、ちょっとだけ下品で、何ものにもとらわれない、「佐野洋子ならでは」の文章を、もっともっとたくさん書いてください!

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コメント

はじめまして。40代女性です。父がギャンブル依存症状で、家族間の葛藤に悩み、追求し続けるうちに、児童相談に関わる仕事に恵まれました。佐野さんの「100万回生きたねこ」は、何だか痛くて、あまり子供たちに読み聞かせできませんでした。「シズコさん」深く胸に刻まれました。母娘の葛藤と赦しの、ひとつのモデルとして、多くの人に読んでもらいたいです。佐野さんの快瘉を心から祈ります。

投稿: 夢 | 2010年8月 1日 (日) 11:51

>夢さま

はじめまして。
コメントをありがとうございました。

親との葛藤がこれほどまでに一人の人間の人生を決定づけるのか、と考えさせられますね。息子さんとの親子の葛藤にも悩むわけですから。

その葛藤を自身で客観化し、言語化できる、本当に希有な方だと思います。それを読んで救われる人がどれほど多いことか、と思います。佐野さんは間違いなく、言葉で多くの見知らぬ人を救ったと思うのです。

夢さんも、ご自身の体験を活かし、かかわる子供さんたちに、彼らが欲する愛情をどうぞ降り注いであげてくださいね。

夢さんがおっしゃるように、佐野さんには、佐野さんならではの血の通った言葉をもっともっとたくさん書いていただきたい、と心から思います。

投稿: とみきち | 2010年8月 1日 (日) 23:28

とみきち様
お返事ありがとうございます。以前から佐野さんのエッセイが大好きでしたが『シズコさん』は特別な一冊になりました。周りの友人、知人、勉強仲間等にじゃんじゃん知らせたのですが、反応が今ひとつで…。とみきちさんと、佐野さんへの想いを共有できて嬉しいです。こちらは〇ックオフへふらりと立ち寄るのが楽しみで、佐野洋子さん、さくらももこは、買わずにはいられません(笑)。
マイケル・クライトン、宮部みゆきも好きです。音楽はクラシックと矢野顕子。また、お邪魔しますね(^-^)

投稿: 夢 | 2010年8月 7日 (土) 16:33

>夢さま

こんにちは!

コメントをいただいてから、すっかり日にちが経ってしまいました。本当に失礼いたしました m(_ _)m

本を薦めるのは難しいですね。
自分のテンションが高過ぎて、相手が引いてしまうこともありますし。いつも本についての情報交換をしていて、お互いの好みがわかている相手なら、そんなことはないのですが。

さくらももこには、ディテールに同世代感覚を持ちますねえ。思わず、くすりと。

私は、本当に頑固な「いわゆる小説好き」だったのですが、いわゆる読み物系は読めなくなってしまいましたが、エッセーは逆に昔よりずっと好きになりました。

何かの拍子に、それまでと違うものが好きになれると、楽しくなりますね。

何かよい本がありましたら、教えてくださいね。

投稿: とみきち | 2010年8月15日 (日) 17:02

とみきち様
お久しぶりです。最近、佐野さんの『役に立たない日々』を読みました。日記風エッセイとでもいうのでしょうか。淡々と、時におかしく…佐野ワールドを堪能いたしました。読んでみてくださいませ

投稿: 夢 | 2010年9月28日 (火) 22:04

>夢様

こんばんは。
猛暑の夏、いかがお過ごしでしたか?

『役にたたない日々』
お読みになったのですね。

このエッセーは佐野さんの病気のことがストレートに書かれているので、これまでにもまして、正直なありのままの佐野さんが書かれていますよね。

泣き笑いしながらまさに佐野ワールドにひたりました。

拙ブログにも感想を書いております。
お時間のあるときにご笑覧くださいませ。

http://yomuyomu.tea-nifty.com/dokushononiwa/2008/10/post-1a7c.html

投稿: とみきち | 2010年9月30日 (木) 21:06

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