« 『文学鶴亀』 武藤康史 | トップページ | 『てのひらの闇』『残り火―てのひらの闇Ⅱ』 藤原伊織 »

2008年7月20日 (日)

『めぐらし屋』 堀江敏幸

堀江敏幸は、リアリティと幻想が違和感なく同居している作品を書く才能にあふれていると思う。何の意味があるのかと思えるような、ごくごく日常的なディテールへのこだわりと、話全体を覆うリアリティの欠如とのバランスこそが、彼の作品の最大の特徴だろうと思う。それだからこそ、現実に疲れた中年の我々は(笑)、彼の作品を読んで、オアシスを見つけたかのような安堵感にしばし浸れるのだろう。

ディテールのこだわりだけを取り上げると、村上春樹を思い出すときもある。しかし、そこは世代の相違なのか、フランス仕込みの堀江と、アメリカ好きの春樹の違いなのかは判然としないが、春樹作品はやはり、どことなく、ビバ・アメリカ!といった匂いが漂うのに比べて、堀江のほうは、バタ臭さをあえて封じ込めている感じがする。

さて、本作品は、また紹介が難しい。筋を紹介するわけにもいかず、かといって、筋を紹介してしまったらおしまい、という作品でもない。どこが良いのだ、ということを説明しようとすると、具体的なところを紹介せねばならず、しかし、そんなことをすると、本作品を読むときの喜びが半減する。

具体的には、ものすごくおおざっぱにいってこんなことを私に教えてくれた、ということを紹介してみたいと思う。それは……。

自分の才能や生きるべき道筋というものについては、自分が気づかなかっただけで、本当は、周囲の人にはわかっていたし、知らないうちに親から引き継いでいるものがある。それは、運命というようなものであって、本人にとってはあるとき突然、その姿をあらわすように思えるが、実は昔からそうあるように定められていたものなのだ、ということ。そして、そのことに気づくためのいろんなヒントがそれまでにもいろいろとあったにもかかわらず、時期が来なければ、人はそのことに気づかないものなのだ、というようなこと。

そんな話かなぁ、と思いつつ、ぜーんぜん見当はずれかもねーとも思う。正直なところ、私は、この小説の意味合いなんて何でもいいやって思っているのだ。読んでいて、心地良くて、へー、こういう展開になるんだー、あらまあまあ、なんていって読み進んでいるあいだが幸せなら、それだけでいいのだ。私が堀江小説に求めるのは、読んでいるあいだの、適度な現実離れした浮遊感、なのだから。

さてさて、こんなひとりよがりの感想を書いていても、いったいどんな小説なんだ!と思いますよね~。そういうお声に対しては、ディテールっぽい表現一カ所、それから、抽象的な表現一カ所、それぞれの引用でお許しいただくことにいたしましょうか。

蕗子さんには、相手の言葉の意味がとっさにつかめないとき、ふだんおだやかなだけに端で聞いているとひときわ素っ頓狂に響く声で、はい? と問い返す癖がある。耳が悪いのかと心配されこともあるくらい大きな声になってしまうので、職場でも最初はひどく驚かれたものだが、いまではもう外来の電話をとるたびに、若い同僚までがみな、さあ、いつくるかと笑顔で身構えたりするようになっている。

忘れていた記憶をひとの協力を得て突発的に思い出すことと、なんの記憶を持たなかった幼少時代の自分の姿や親の横顔を、確実に存在している写真や、映像や、身につけていた衣装、それから肉親をふくめたたくさんのひとたちの証言によって構築していくことは、どうちがうのだろう。人生最初の記憶がそれぞれの年齢で異なるように、記憶を持つ生きものとなっていく過程もみなちがう。存在した記憶をいったん失ってからつくり直すのと、最初から存在しなかったものを無理にこしらえていくのとでは、どんな差異があるのだろうか。

「めぐらし屋」というのは、亡くなった父(母と別居していたので、あまり接触がなかった)が、生前やっていた業務の名前らしい、と、蕗子さんは、父のアパートの整理をしているあいだに偶然知ることになる。そして、地味で波風の立たない蕗子さんの暮らしに、ほんの小さなさざ波が立ち、蕗子さんは、生前の父について思いをめぐらすことになる。大きな事件など一つも起こらず、蕗子さんの父の遺品の整理をきっかけに、さまざまな出来事や思い出がつむぎ出されていく、という、堀江小説によくある、「特権的瞬間」から始まる「連関」の物語。語られる話はあくまでも、小さな小さな世界を描いた小説、なのですが。

|

« 『文学鶴亀』 武藤康史 | トップページ | 『てのひらの闇』『残り火―てのひらの闇Ⅱ』 藤原伊織 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/21746/41917848

この記事へのトラックバック一覧です: 『めぐらし屋』 堀江敏幸:

« 『文学鶴亀』 武藤康史 | トップページ | 『てのひらの闇』『残り火―てのひらの闇Ⅱ』 藤原伊織 »