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2009年2月14日 (土)

『バン・マリーへの手紙』 堀江敏幸

岩波の月刊誌『図書』に連載されたエッセイを単行本にまとめたもの。一篇6000字ぐらいだろうか。

この著者の作品を読むことはすなわち、エッセイ・小説・日記・学術的ノンフィクション・講義の境目が取り払われた世界に放り出され、著者の気分の赴くまま、書かれた文字だけを頼りにあてのない旅に連れ出されることである。

旅に出る目的はおそらくほとんどないが、旅に出るきっかけは必ずある。そして、それは常に偶然である。目的が定まっているときの著者は、義務感や気後れを身にまとい、いやいや出かけることになる。そしてその話が本来の目的を達成しました、と結ばれることは皆無で、何かの偶然が起きて、話は思わぬほうに展開していくことになる。これが堀江作品のお約束。読者は、この作品ではどこに連れて行かれるのだろうか? と思いながら読み進め、最後に、「ああ、ここにたどり着いたのか!」と思うこともあれば、「話がちょっと出来すぎじゃない?」と感じてしまうこともあるし、素敵な余韻のままで終わったときには、その余韻の豊かさに浸りながらしばらくぼんやりすることもある。

この一冊は、まず一作目『牛乳は噛んで飲むものである』が良い。幼稚園のA先生についての思い出が語られる。A先生の特徴は、牛乳について一家言を持っていたことである。彼女は常に、「牛乳はなまぬるい状態で、つまり、雌牛が仔牛に与えるくらいの温度で飲まなければ味がわかりません」と断言するのであった。

冬ともなれば、石油ストーブのうえに銅メッキたらいと鍋とを置いて二重底にして、鍋の中に牛乳瓶を並べてあたためた。そして、噛んで飲んだのち、「ああ、やっぱり牛乳はこのくらいのほうがあまくておいしいわね、ユセンにしないと出てこない味なのよ」と言うのであった。

その後、「ユセン」→「湯煎」→「バン・マリー」と、同じような意味をあらわす言葉ではあっても、それぞれに異なる語感や語源の周囲を、著者独特のこだわりや興味をもって歩き回る。

エピソードの一つとして紹介されるのが、学生時代の話。酒席の与太話ついでに、牛乳にまつわるこの思い出を披露したところ、ある友人に説教される羽目になる。

私が幼稚園の先生の影響をいい年になるまで引きずっていて、いまだになまぬるい牛乳に執着していることに心底呆れたふうの友人のひとりが、だからおまえはいつも白黒つけずに平気でいられるんだな、煮え切らないのがいちばんよくない、きりっと冷えてるか、湯気がほくほく立ったホットにするか、どちらかに決められないようなやつはろくな人間にならない

その後、バン・マリーに関する語源等の説明を書いたのち、「白黒がつけられないのではなく、白黒をつけない複眼的な思考に共感していた、そしていまでも共感している私には、マリアの力を借りた湯煎に相当する中間地帯を設けることと表面的な優柔不断は、あくまでべつものだったのである」としている。

この「バン・マリー」への共感が、本書のベースに明示的、ときには暗示的に流れている。『河岸忘日抄』にも描かれた、たちどまる時間の豊かさ、脇の小道に迷い込むことの楽しさに通じる、堀江敏幸の思考をたどる際のキーワードである。

冒頭の一篇が導入。著者の言葉をそのまま借りると、「日々の愚考を湯煎にかけていくことにしたい」。続く作品群は、そのように位置づけられた連載であった。

『崩れを押しとどめること』も、著者らしい感性に彩られた佳品だと思う。エスカレーターが整備中の地下鉄の駅で、年老いた母親を中年男性が背中におぶって階段を下りる姿を見た話を、幸田文の『木』の中で出会った「倒木一新」という一語に結びつけて、「崩れ」について考察する一篇。

現場を自身の目でたしかめながら、同時に言葉としての崩れについて、彼女は考察を深めていく。崩れや崩壊とは、いったいどのようなことなのか。現場の人間にたずねてみると、「地質的に弱いところ」という答えが返ってきて、幸田文は、この「弱い」という言葉の運用に、逆説的な強さときびしさに打たれる。

(作品の引用あり)

読み返すたびに、私は彼女の思考の理路に引きつけられる。肝心なところでだれかに背負ってもらわなければならないという体力の衰え、すなわち老いの姿がここに重なっているのだ。身体の奥深くをむしばんでいる弱さ、土中の弱さが、なにもかも飲み込んで地形全体を一瞬にして変容させてしまう途方もない強さの基礎になっていることを、とてもやさしい言葉で彼女は教えられたのである。聞く耳を持つ人だけに許される、贅沢な学習法。時を経て崩れの場を覆いはじめた樹木の瑞々しさ、押し流され、断ち割られた岩石の断面の、まあたらしい美しさが、みな、底深い弱さに端を発していることの不思議。弱さを強さに変換するための、老いを若さにたたき直すための装置が「崩れ」なのである。

文学作品を読み解き、紹介する際の著者の筆はいつも、冴え渡る。言葉の選び方に迷いがないのは、見えないところで常に湯煎をしているからであろうか。そういえば、冒頭の作品の中に、このような一節があった。

「ここで重要なのは、バン・マリーを通過したかどうかを、外に見せてはならないという点だ。」

見逃してはならない一文である。

心の中であたためてから、そっと差し出すことをよしとする。舞台裏やら逡巡やら後悔やらを売り物にすることを是としない著者の姿勢が感じられる。小説なのかエッセイなのかわからない作品であっても、それはしっかりと丁寧に「湯煎」にかけて、本当のおいしさを感じてもらえるように仕上げられた末のものなのである。

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コメント

私が表現しきれない堀江さんの世界を・・
まこと的確に書いてくださって、
嬉しくなって、思わず書き込みしております。
>境目が取り払われた世界に放り出され、著者の気分の赴くまま、書かれた文字だけを頼りにあてのない旅に連れ出されることである。
まさしく、旅なのですよね。
主人公の私・・と一緒に、旅をしている感覚。
それも、実際にあるだろう場所を旅するので、
読み終えたとき、ふっと現実に放り出されて、
寂しいような 安堵したような感覚になります。
この本、まだ読んでいません。
図書館でチェックしてみます。

投稿: てふ | 2009年2月15日 (日) 18:11

>てふさま

おひさしぶりです!
コメントをありがとうございました。


>主人公の私・・と一緒に、旅をしている感覚。
それも、実際にあるだろう場所を旅するので、
読み終えたとき、ふっと現実に放り出されて、

確かに!!

小説でもエッセイでも、著者には納得の終結であろうものが、読者には、「終点です」と突然列車から下ろされるような感覚がありますね~。

本書は全体に、コアな堀江ファン向けのテーストが強くて、そうでないとちょっと読みにくい作品が幾つかあるようにも感じました。

投稿: とみきち | 2009年2月15日 (日) 22:53

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