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2009年3月15日 (日)

『猫の客』 平出隆

こういう作品に出会うと、心の奥深いところが満たされる。ぐいぐいとストーリーで引っ張るわけでもなく、声高なテーマもなく、かといって、内にこもった独白というわけでもないし、風流に徹した作品というわけでもない作品。ふと思い出したのは梨木香歩の『家守綺譚』。家と人が感応し、そこにあらわれる動物との幻想的な交歓が描かれる点でも似ているし、全体を包むトーンもどこかしら似ているところがあるかもしれない。

ひっそりとした古い庭を持つ古い家の離れを借りて、現代的生活や享楽とは一線を画して、社会から落ちこぼれかかったような中年夫婦が暮らし始める。隣家に迷い込んでそこの飼い猫となった猫が、うちの猫であってくれたらと願う夫婦の生活に入り込み、徐々に大きな存在を占めるようになる。

決して人に抱かれず、啼くこともない猫と、そこに住まう人間の敏感で繊細な感性とが引き合ったのか、互いの存在を必要とし、なくてはならない関係に成熟していきながら、人間の側からするともう一歩距離を縮め切ることのできない様子が、せつなく、もどかしい。

他の猫が入れぬよう、チビだけが通れるサイズでつくっておいた抜け穴をうっかり閉めてしまっていたある日、いつものようにかよってきたチビが、何とか入ってこようとしてガラス窓に体当たりを繰り返すシーンなど、淡々とした描写であるだけに、心臓がどっきん、となる。

本書は最初から寂しい予感に包まれている。チビとの出会いを語る文章が過去形なのである。別れを前提としたストーリーであることを読者は作者から、はっきりと通告されているようなものである。読み進めていくと、現実の生活とは思えないような幻想的な描写もあり、イメージは全く違うけれども、浦島太郎や舌切り雀といった昔話をも思い出させられる。「一切ははかない夢なのでありました」。そんな結末を予感させる語り口でもあるのだ。

チビとの出会いは第一章で語られるが、本書は同時に、借りていた古い住まいの物語でもある。そして、その住まいと隣家に紛れ込み飼われるようになったチビとは、どちらか一方がこの物語の主人公であると言い切れないほど、等分の重みをもって描かれているのである。

さて、チビはこんな猫である。

この猫の個体としての特徴は、細身で小さく、それだけに、きれいに尖ったよく動く耳が目立つというほかは、人にすり寄って行く気配がまったく感じられないことだった。はじめは、こちらが猫になれないせいか、と思ったがそうでもないらしい。稲妻小路を通りがかりの少女が、足をとめ、しゃがみこんで見つめても逃げないが、手が触れようとする瞬間、するりと鋭くかわした。その拒絶ぶりに、冷たくて青白い光の感触があった。

加えて、めったに啼かないことが挙げられた。はじめて小路にあらわれたとき、少しは声を立てていたようにも思えたが、あとはいっこうに啼かなかった。どうやらその声をいつまでも聞かせてはくれないらしい、と観念させられていく調子だった。

注意の向きがてんでんなことも特徴で、これは幼猫時代にかぎらなかった。

猫は、庭にやってきて、ひとりきりで自由に遊び、また、縁側で「遊ぼう」と人間を誘うようになり、そのうちに、家に入ってきて昼寝をするようになった。押し入れに入ったり、布団の上に寝たりする。毎日やってくる。それでも、しかし、本宅は隣の家なのであった。

こどものいない夫婦は、それぞれの方式で猫を愛していた。妻は、「これはうちの猫なの? そうでないの?」と、ときに寂しそうに自問した。夫よりも愛情の示し方がより直接的で、また、深い感性の部分で信頼し合っているようであった。

家の貸し主で、母屋に住んでいる大家さんの年老いたご主人が倒れて入院し、やがて亡くなると、残された老夫人はその家を離れる。離れを借りている夫妻もやがては出て行くことが決まり、転居先を探し始める。反対側の隣家のチビが、あるとき突然からっぽになったらどう思うだろう。また、ガラスに体当たりを繰り返すのだろうか。夫婦は、猫が自分たちの飼い猫でないことを嘆き、また、転居後の猫の驚きを想像して心を痛めるのであった。そして……。

どれほどひっそりと厭世的に暮らしていようとも、社会の流れや経済の影響を受けずに生きていくことのできない人間と、どれだけ自由気ままに一日を過ごし、心許すことのできる人に囲まれて生きているように見えても、自身の運命を自ら切り開くことのできない一匹の猫。彼らは、運命的な出会いを果たしたかに思えたとしても、それは一瞬の幻想でしかない。しょせん人間と猫とでは生きる世界が違うのだ。人生のすべてを分かち合うことはできない。そのことの哀しみに全編が満たされているようであった。

しかし逆に、こうも言えるのかもしれない。幻想であるからこそ、その出会いや、ともに過ごした一瞬一瞬がかけがえのない輝きを放つのだ、と。そして、言葉を交わせない、状況を変える力を持たない、弱い生き物同士は、偶然の采配によって授かったその場所での出会いとしばしの共棲みの至福を、幻想と知りつつ存分に堪能したのだ、と。無力な者同士が、何の約束も交わすこともなく、言葉で互いの心を確かめ合うこともなく、ただただともに居ることの心地良さを感じたのだ、と。

時が流れ、世の中が変われば、その至福のときにもやがて終わりがやってくることなど、とうの昔からわかっていた。だからこそ、物語は最初から最後まで諦観にも等しい静かな哀しみに満ちているのだろう。

作者の詩的な表現は随所にその輝きを見せている。

座敷の床の間の脇には、明り書院が設けられていた。月光をほのかに透す明り障子を背に、出(いだ)し文机の上で腹這いになっているチビにピンポン玉を転がすと、小さく打ち返す。それが、いつまでつづくかと思わせた。

防犯のために点している玄関の常夜燈と離れの住居から来る明るみとのほかは、月の光がようやく、物の文目(あやめ)をつけさせていた。仄暗い屋敷の中で、小さな白い玉が跳ねて、硬い音を立てた。それを追う小さな生きものも、月光をまとって、白い珠のようになった。

昼は昼で、チビは梅の花びらを背につけたりしながら、ハナアブを叩き、トカゲを嗅ぎ、精気と混沌の萌しはじめた庭で遊びつづけた。

突然の木登りは、稲妻に化けたようであった。稲妻はたいがい上から下へ走るものだが、この稲妻は下から上へも走ったわけである。チビが電撃的な動きで柿の木に登るんを、件(くだん)のノートの中で「稲妻の切尖のように」と妻は書き留め、また、「雷鳴を起す手伝いをするように」とも言い換えたりした。なるほど、そんな感じがした。

不遇の状況の下でこの家を借りるようになった中年夫婦が、チビとともに暮らし、チビと、そして、その家(庭)との別れを機会に再生の第一歩を踏み出していく。チビとその家は、この夫妻にとって、世間からの一時的な避難所であり、現実に傷ついた魂の浄化の場所であったかもしれない。全編を通して、月の光、植物や風、雨などから感じられる季節の移り変わりが、時の流れ、心の動きとあいまって描かれていて美しい。

チビと古い家や庭によって体内に新しいエネルギーを蓄えることのできた夫婦は、再び人間社会に、現実の営みの中に戻っていく。そして、母屋が壊され、開発されてしまおうとも、魂はその庭にチビとともにあるのだろう。

ほのかな再生への期待を感じさせて物語りは終わっている。

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