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2009年3月30日 (月)

『小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅』 島尾伸三

島尾敏雄とミホの長男、伸三は写真家。本書が出たあと、朝日新聞の「著者に会いたい」の欄に、父親そっくりの顔の著者の写真と、インタビュー記事が掲載された。記事のタイトルは「ずっと絶望していた」。一部引用すると、「思い出したくないことの一部は、小説家だった父・敏雄の代表作『死の棘』に描かれた。神経を病んだ妻と敏雄との壮絶な日々が題材だが、長男にとってみれば、全体像のごく一部でしかない。親として、また大人として機能しなかった両親との倒錯した生活を繰り返し思い出すことは、すべてを損なわれ続けた当事者には苦痛以外の何ものでもない。」

本書の各エッセイの初出一覧を見ると、一番古くは1998年の「ユリイカ」掲載のエッセイで、その後、2004年、2005年、2006年に書かれたものが合計4編。そして、第一、二、七章が書き下ろしである。

その書き下ろしが子どもの作文のような文体で綴られるのは、両親の呪縛から逃れられていないことを示しているのかもしれない。あるいは、60歳の一人前の人間として、両親の性質や生き方を客観視することも、自分の心の中に納得して位置づけることもできていないからかもしれない。わかっていて、あえて避けているのかもしれない。上記に「すべてを損なわれ続けた」とあるが、本当に大切な大切な奥さんである登久子さんと可愛い娘のまほちゃん(もうすっかり成長して、漫画家&アイドルになっています)に救われつつも、傷ついた心がすっかり癒されることは決してない。著者の深い諦観は、これまでの作品の中でも繰り返し表現されてきた。

写真は、ほんのわずかピントを外したような、構図も角度もきちんと調和していないような、バランスをあえて崩したような、そのために、どこか現実味のない作品が多いように思う。街角の写真も、人の姿を写した写真も、実在感のない、この世とあの世のあわいにあるような、儚さを感じさせる、静かな写真。“説明”や“完成”を意識的に拒絶している。そして、何よりも、島尾伸三の撮る写真には、音がない。音を感じさせない、光と影だけの世界。

島尾一家のことを、親の側からも、子どもの側からも、それぞれが書いた文章を通してある程度知ったうえで本書を読むと、伸三の心に刻まれた傷の深さがわかる。そして、その傷が全く癒えていないことも感じる。亡くなってなお、敏雄・ミホは伸三をがんじがらめにしているようだ。

台所の流しに水をはって、妹と私は水遊びをしたことがあります。二人ともそれくらい小さかったのです。

おかあさんは台所の脇に、お風呂で体を洗うスポンジとして使うヘチマを育てました。おかあさんとマヤと私は、大喜びでヘチマの種を植えて、それが細い縦の棒をつたって育つのを楽しんだものです。(中略)

おかあさんは、同じ場所にマクワウリも植え、数個を一度だけ収穫しました。小岩を去るころにはそれらが枯れて竹の棒にひからびたままでしがみついていました。楽しいことを考えるのが得意だったおかあさんの夢を、片っ端から壊したのは、外出が多くて難しい顔ばかりしていたおとうさんに違いありません。

私は今だって「おとうさんのバカ」と、言いたいです。

1998年に書かれた「琉球旅行」の書き出しは、こんなふうです。

この作文を私は出版社の注文に従って書きはじめています。ぼくのおとうさんだということになっている、物書きという文を書いて収入を得る、不思議な職業を生涯の友とした島尾敏雄についての思い出を、何か欠かなければならないのですが、この事態は、自発的に書きたいと思ったからではなく、これによって多少の収入を得たいからだけなのです。

(中略)

嗚呼! いったい何を夢見て生きてきたのでしょうか、ボクはおとうさんのように文学という魔物にとりつかれたままの一生、あるいは音楽家のような、命を削る楽しみを見出すことの出来た幸せを、未だに知らないままです。芸術、信仰、信条……、持ち合わせていないことを知るのみです。

受動的だからといって、それが加害者であることを免れるわけでもなさそうです。積極的な社会参加が出来ない具合に気持ちに鍵が掛かっているくせに、下卑た欲望は木の芽のように乾燥した気持ちのひび割れから顔を出すのです。取り返しのつかない無知と、尽きることのなさそうな猥雑な欲望に支配されている自分を、どうにも出来ません。

時折の覚醒が、煩悩が火傷の痕を神経に深く残していることに気付くたび、羞恥心が加えて火傷を酷くします。

1998年の時点では、このような直裁な自意識の発露があった。それに比べて、最初に引用した文章はどうだろう。身構えているのか、あるいは逆に、このスタイルを貫く限りは、現在の自分が再び両親によって侵食されるおそれはないという、両親と自分の適当な距離感が定まったのか。

同じ「琉球旅行」からもう一つ引用すると。

知っています。他人の思い出話など、余程に衝撃的な内容でなければ、つまらない夢の話を聞かされるような退屈でいっぱいだということを。

これまでの私の、たったのとも言える五十年の人生に、いったい人を感激させたり、指針や参考にして頂けるようなことが一つでもあったでしょうか。いいえ、見当たりません。落ち着き先などどこにも無い、行き当たりばったりの、不恰好でどうでも良い些細なもめ事や混乱が、解決されることも無く散らかされたままです。

島尾敏雄についての回想を書くことへの迷い、ためらいや恐れが感じられる。

書き下ろしの第七章は、父・敏雄が亡くなり、そのお葬式の前後の様子を題材としている。狂気の世界に入っている母・ミホが次々と下す命令に、あらがうことを全く放棄して忠実に従って過ごす様子が描かれている。淡々とした文章で書かれているだけに、その絶望の深さと呪縛の強さに打ちのめされそうになる。葬儀もひととおり終わり、登久子、マホを東京に一足先に帰したあとのこと。

家の雨戸を全て閉じて、真夜中に、おかあさんと妹と私の三人が、畳の居間の机の上に新聞紙を並べます。おかあさんは正座をして、命令を下します。妹は見ているのが役目です。

二つの骨壺に納まっている焼いた骨をそこにひろげるのです。足先の小指がどれだけ分からないほど粉々です。かかとの骨は分かりやすくて、膝の骨はどれも折れていて、という具合に、足先から頭に向かって順に、形の良いものだけを奇麗な壺に入れて行きます。

妹が、子どものころにそうだったように、私の横にくっついているので、知っている骨があれば、それを説明していると、おかあさんも興味津々です。

おかあさんの顔を見つめながら、私は悲しいふりをして、大きな骨をガリガリと食べてみせました。妹は、迷わずに泣いて食べだしました。ギクッとした表情を慌てて吹き消すと、おかあさんは嫌そうに、小さな骨を捜しだし、それを食べました。

妹やマホが居なければ、おかあさんは私に「殺しておくれ」……と言ったに決まっています。ええ、私はきっと、その命令を忠実に実行したはずです。そう言われなくても、ぶち殺しそうでした。どうせ、地獄へしか道のない私なのですから。私の心のなかのどこかに、悪魔なのか守護の聖人なのか天使なのかが住んでいて、おとうさんやおかあさんのように自分で自分の人生を制御することが出来ません。彼らの声に従って生きているだけなので、乱暴なことが好きなのではありません。私の身体の自然は静寂なのですから。

読み返せば読み返すほど、説明したり、感想を述べたりできなくなってくる。著者の苦しみ、絶望を黙って受け止めるのが精一杯で、何を言ったらいいのか言葉が見つからない。

しっかりとした心が出来上がる前に、全く無力な年齢のときに、親の愛情がなければ生きていかれない時期に、神経を病んだ親たちの異常な闘いの巻き添えになってしまった子どもは、伸三だけでなく、妹もマヤも同様である。敏雄の死後、著者はマヤを一度はミホから引き離したが、連れ戻されてしまう。そして、マヤは衰弱して亡くなってしまう。妹を守れなかったという悔恨がまた一つ、著者の苦しみに追加される。

伸三が築いた、大切な大切な登久子さんとの愛娘のしまおまほも、いずれ、祖父母のこと、両親のことを書くことがあるだろうか。

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