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2010年3月23日 (火)

『書かれる手』 堀江敏幸

堀江敏幸は滅多に自身を語らない。書評を書くときも、エッセーを書くときも、小説を書くときも。そして、その作品ジャンルの境目は曖昧模糊としている。物語でありそうで、ひとりごとのようでもあり、また、エッセイかと思いきや、創作の世界であったりする。読者はその曖昧さの中に好んでまきこまれ、いっとき日常を忘れる。邪悪であったり、過剰なエネルギーの噴出があったりもしない。大きな事件や現代的な暴力はない。曖昧さ、逡巡、気鬱、ためらいをたたえながら、美を求める心は無限で、かつ、底深い。

その作品にひかれる読者の一人として私は、この作家の創作の源を知りたいといつも願っていた。その意味で、この文庫はまさに待っていた一冊という気持ち。初出一覧をみれば、遅れてきた堀江ファンは入手せずにいられないでしょう。

  • 「書かれる手」  「早稲田文学」1987年3月号
  • 「端正なエロス」 「早稲田文学」1987年8月号
  • 「脱走という方途」 「早稲田文学」1988年9月号
  • 「濃密な淡彩」   「早稲田文学」1989年2月号

今ある堀江ワールドの萌芽を感じ取ることができるこの4論文は、是非ともおさえておきたいラインナップ。そのほかにももちろん、書き下ろしも、90年代に書かれたいくつもの作品も含まれている。

私個人としては竹西寛子論「端正なエロス」を一読し、その作家や作品へのアプローチの秘密に近づくヒントを見たように思った。この作家の小説の多くの主人公がそうであるように、作品論を書くとき、作家自身もやはり、ある言葉をきっかけにして具体的なイメージの世界にさまよい出ていく。辻邦生はかつて自身を憑かれて書くタイプの小説家と言い表わしていたが、堀江敏幸は逆に、あるキーとなる言葉を見つけると、そこを入り口にして、自分がその主人公や作家の世界に入り込んでいき、さまよい歩き、あたりを眺め回し、そこで実感し得たものを、言葉によって構築し直すタイプなのではないか。語りたい物事や人を対象化することはなく、寄り添い、体感する手続きを経てから言語化しているのではないか。私にとっては非常に自然なこの方法は、ある意味非常に女性的なアプローチといえるかもしれない。

本論考についてキーワードを用いて解説してしまうような無粋は避けたいが、堀江ワールドの萌芽と私が感じた一部は、たとえばこのようなくだり。

竹西寛子が執着しつづけている古典とは、ほぼ王朝の和歌・日記文学に相当するが、この限られた枠内で繰り返し取りあげられ、語られているのは、「均衡」を見失うまいと腐心する自身の立場であると言っていいだろう。右か左か、黒か白か、いずれにも惹かれる自分を十分理解しつつ、あえていずれにも与することのない場所を求めて行き来を繰り返すこと。この視点は、語られる内容が何であれ、対象となる歌人が誰であれ、揺らぐことがない。

若かりし頃の堀江さんの竹西寛子への親近感を感じ取ることができる。「いずれにも惹かれる自分」は、『バン・マリーへの手紙』(→拙ブログ記事はこちら)のテーマとして描かれていたし、ためらうこと、踊り場にいる時間をよしとする気持ちは、『河岸忘日抄』(→拙ブログ記事はこちら)をはじめ、この作家の大きなテーマでもある。

さて、本書を堀江ファンが喜ぶ点はあと二つ。一つは、あとがきで作家が自身の作品について語っていること。ここを引用してしまっては、映画の予告で結末を見せてしまうようなことになるので、核心の部分は控えるが、一部だけ。

いまなぜこのような形態で過去を振り返る必要があるのかと問われたなら、まだ脳髄が生物学的に柔軟であったころに書かれた文章のなかに、現在の私の方向性がすべて出そろっていることを確認しておきたかったからだ、とひとまずは応えておきたい。根本的なところで自分がいかに成長していないか、その苦々しい事実を見つめることが、ひとつの責任の取り方だと考えたのである。

これは2000年に本書が平凡社から単行本として発行された際に書かれたあとがきの一部。そして、もう一つ大きな大きなおまけがついたのが、2009年出版の平凡社ライブラリー版(文庫本です)。付加されたのは、三浦雅士の文章と堀江敏幸の感動的な縁(えにし)のストーリー。どんな縁があったのか、ここに書きたい気持ちは山々なれど、おまけの中身を先に教えられたら興ざめですよね。ぜひご自身で本書を手に取りおまけの滋味を堪能してください。一度本を手に取ったなら、最初におまけを味見しちゃっても、おまけの価値も本体の価値も減じる心配はないので、まずそこから読んでみるのもいいかもしれません。

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コメント

竹西寛子は知的でも美女でもないのに早稲田関係者に人気があるのは、彼らのどうしやうもない卑属な俗物性を癒して呉れるとでも思ふのだらうか?
売文社のことは中村光夫の小説(通読したこともない)で知つた。黒岩比佐子にも興味はないが梯久美子は美女なので面白さうなのを書いたら買つて読んで見るつもり。

投稿: あがるま | 2010年12月30日 (木) 14:04

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