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2012年12月15日 (土)

『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』 堀江敏幸

『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』 堀江敏幸著

エッセイ集の第4集。

タイトルの「象が踏んでも」は、珍しいことに、散文ではなく、詩である。日本の文学は散文に偏り過ぎで、詩の扱いが不当なほど軽い、というのは荒川洋治が常に主張していることだが、そういう風潮のなか、作家が詩を書いて発表するのは怖い作業なのではないか、と想像できる。詩人を標榜している人であれば詩を書くのは当然だけれど、「文学=散文」という了解がこれだけ広まっている日本において、「詩人」以外の人が詩を発表するとき、そこにはどんな力学が働いているのだろうか。そんなことを考えてしまった。

さて、「象が踏んでも」というフレーズからほぼ自動的に思い起こすのは、「アーム筆入れ」である。昭和40年代だったと思うが、テレビCMで「象が踏んでも壊れないアーム筆入れ」というキャッチコピーはかなり強烈だった。実際に象が踏んでいたシーンがあったかなかったか、そこはちょっと自信がないのだが、私とほぼ同世代の著者が、この詩をものしたときに、そのキャッチコピーが頭にあったであろうことは、かなりの確率であり得ることだと思う。

「アーム筆入れ」と言われても、ピンとこない方がほとんどであろう。ネットを調べてみると、ちゃんと見つかるのだから嬉しくなる。こちらをご覧あれ。

そして、詩は左側のページから始まる。1ページめくると、やはり……。2ページ目の2行目、「十二本の命が入った筆入れのほうである」。

象というきわめて具体的な重量感のある存在がつむぎ出す、現実的な(と感じられる)世界の広がり。形容詞、副詞、目的補語、主語などがつむぎ出す非現実的な(という自由を与えられた)言葉の世界。

何が現実で、何が非現実なのか、そのあわいを描き出し、自在にその二つの世界を行き交うとき、ルールは書き手が決めている。

 

本書のなかで私の最もお気に入りとなった作品は、「真夜中の庭に、ひとつの助詞を」。
2008年に創刊された「真夜中」という雑誌の創刊号に寄せられた作品。雑誌名へのオマージュとして、このようなタイトルのエッセイとなったことは、堀江ファンにはまことに喜ばしいプレゼントだ。

堀江さんがフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を愛好していることは、以前から知っていた。今、確認したわけではないが、『海』や『考える人』のような文芸雑誌で、海外文学特集等の特集が編まれると、あまたの作家や有名人が、「私のベスト3」のような形で寄稿することになる。そうした特集の一つに堀江さんが本作を挙げて、「一歩踏み出す勇気を描いている」と評していたことを覚えている。(うろ覚えなので確認が必要だが)あの作品をそういうふうに読むのか、ととても新鮮な感動を覚えたのであった。

このエッセイのすばらしさは、「真夜中」という言葉の周辺を漂うことからスタートして、「ラウンド・ミッドナイト」について語り、『トムは真夜中の庭で』の作品、そして作者と訳者の関わりなどについてもやわらかい考察を加え、作品とともに彼らを温かく包み込み、かつ、「真夜中の庭で」とタイトルに「で」を付したことの意味を、詩人の感性ともいえる繊細さで説明する、その一連の流れの心地よさに尽きる。

真夜中には、ひとの心をちいさくまとめてしまわず、大きく外へと押し出す余白がある。十三時の鐘によって開かれた、思いがけない余白。黒々とした夜の前に「ラウンド」という前置詞があったように、トムの庭の前には「で」という助詞があるのだ。

掉尾を飾るのが、トムによる「時間」に関する考察を、読書という行為に結びつけた結末。「わたしの真夜中」さえあれば、私の読書の時間さえあれば、明日に向けた勇気がわいてくる、と思わせてくれる。

この一篇が入っているというだけで本書は十二分にすばらしい。

その他、短いエッセイほど、堀江さんのエッセンスが素材のままのかたちで見つかって、楽しい。

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