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2013年2月 9日 (土)

『ことり』 小川洋子

良質な小説の絶対に外せない条件として、読者が自分を重ね合わせ、独自の読み方ができること、私はそれを挙げたい。世の中に出た時点で、作品は読者のものになる。これが正しいといった読み方はない。読者がそれぞれに「この小説はこういう意味だ」「この主人公はこういう人だ」と手前勝手に受け止める。現代は「個人がメディアを持つ時代」だから、それぞれの受け止めをこれまた手前勝手に発信する。「このように読んでほしい」と思って書いている作家がいるとしたら受難の時代かもしれない。しかし、マスメディアの力は、こと文化の分野に限っては、本当に本当に地に落ちた感がある。個人の発信、個人的な趣味、好き嫌いを、何の利害関係もなく発信する個人が増えてくると、プロの発信も、個人の発信も、マスメディアによる発信も、ある意味同レベルに並んでしまう。

小説を読むという行為はきわめて個人的な行為である。どんな読み方をしようとも、読者個人の自由である。小川洋子の小説は、数ある小説の中でも、読者の性質によって読み方に大きな差が生じるものが多いと思う。

本作は、デビュー当時の作品から、それほど勤勉ではないけれど、それなりにずっと読んできた私にとって、本来の小川洋子らしい作品という印象だった。そして、個人的な好みからいっても、とても好ましい部類に入るものであった。

好きか嫌いかといえば、生理的に好きとは言えない。が、小説として大変好ましい。好きではないのに好ましいというのは何か? それは、小説である以上、作家のつくる架空の世界にしっかりと連れ去ってくれるだけの創作力、想像力があることを私は望むのだ。現実に生きる自分の時間がとまるほどの世界が構築されているかどうか。それが私にとってはとても大切なポイントになる。

小説とは限らない。現在の生身の体が存在している世界よりも、文字を追うことで脳内に構築される世界のほうがインパクトが大きいというのは、考えてみたらものすごいことだ。おそらく私は、幼い頃から、そういう時間に恍惚を覚えていたのだと思う。話はそれるけれど、同様の恍惚を与えてくれるのは音楽とスポーツ(自分でやる場合のみ)。

脱線続きで申し訳ない。

本作については、ストーリーを書いてしまうと、読む楽しみが半減どころかほとんど無くなってしまうので、何も書けないのだ。が、小川洋子作品の中に位置づけるとすると、『ひそやかな結晶』や『余白の愛』に連なる作品と理解していいと思う。言葉を、単なるコミュニケーションの道具として抽象的に捉えるのではないのが特徴。発声に焦点をあてれば、唇や声帯をふるわせて出てくる音としてとらえており、聴く側に立てば、耳の中にある鼓膜が震えてそれを意味あるものとしてとらえる。そうした「器官(organ)」を無視しては成り立たないところにあるものが言葉である。そういう位置づけが、作者には一貫していると思う。

言い換えれば、言葉を「抽象」ととらえずに、あえて「具象」、あるいは、「現実の形あるもの」としてとらえようとしている。

そして、言葉が一つの現実世界をつくっている、という認識で『ひそやかな結晶』は描かれているのではないかと思う。言葉の消滅が世界の消滅に重なっていくのが『ひそやかな結晶』の世界だ。

本作は、主人公である「小鳥の小父さん」の死からスタートする。何の説明もなく「小鳥の小父さん」の死が読者の前に示されてから、その生涯が繙かれていくのである。

鳥の言葉(ポーポー語)しか話さない兄。その言葉は理解するものの、普通の言葉を話していた主人公「小鳥の小父さん」。両親の死、兄との二人暮らし。これ以上遠くには行かないという限界が定められたなかでの、架空の旅行、青空薬店での毎週水曜日の買い物。物理的にも、抽象的にも、徹底的に制限された世界で、人間はどのように生きていくのか。小川洋子は常に、具体的な制限を課された人間を描く。主人公たちに与えられた舞台は常に、からだが、言葉が、知能が、社会性が、交通手段が、外の世界との連絡手段が不自由であったり極端に制限されている。小川洋子は、そういう状況に生きる人間を本能的に好んでいるのか、それとも、そういう状況に至ったときにこそ人間の美や能力、本来の力が発揮されると思っているのか。20代から読み続けているのに、この作家と同年代であることも、文化的な共感もいまだ皮膚感覚で感じたことのない私には、その謎はまだ解けていない。しかし……

「正常な人間と異常な人間の違いは何か」

というテーマが伏線にあるのではないかということを直感的に思っているのである。

『ガリバー旅行記』で、馬の世界に行っていた主人公が人間の世界に戻ったときに、美しい(はずの)女性を美しいと思えなかった(吐きそうになったとあったような記憶……)という記述は、幼い私には衝撃的であった。が、小川洋子の描く世界も、従来当たり前と思われている価値観を覆してやるぞ、という野望があるように思う。

少し毛色が違って違和感があると感じられた『ホテルアイリス』も、その視点で見てみれば、普通と思われている価値観を覆す世界の提示、と受け止めることもできる。

読んでいない人にはまったく何のことかわからないご託を並べてしまいましたが……

ああ、いいなぁと素直に感じたくだりを幾つかご紹介。段落ごとに、別々の場所からとってきています。一続きに見えますが、そうではありません。

ぜひぜひお読みくださいませ。

しかし最も特徴があるのは発音だった。音節の連なりには、誰も真似できない独特な抑揚と間があった。ただ単に独り言をつぶやいているだけの時でも、まるでお兄さん一人にしか見えない誰かに向かって、歌を捧げているかのように聞こえた。一番近いのは何かと聴かれれば、それはやはり、僕たちが忘れてしまった言葉、といつかお兄さんが言い表わした、小鳥のさえずりだった。

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この世の音はお兄さんの耳だけに本当の姿を響かせているのだ、と小父さんは思った。お兄さんの邪魔にならないよう、用心しながらお茶のお代わりを注いだり、電波が悪くなるとアンテナを微調整したりした。自分もお兄さんの真似をしようとして一生懸命ラジオを聴いた。

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彼女は図書整理をしている。返却された本を点検して元の棚に戻したり、本館から届いた本を分類したりする。(中略)彼女は目次を眺め、前書を斜め読みし、更にページをめくってみる。そしてどこか片隅に、誰にも聞こえない声でさえずっていた小さな鳥を見つける。格別の飾りもない慎ましやかな姿形ながら、うっとりするほど綺麗な歌声を持つ鳥だ。彼女は息をひそめ、耳を傾け、口元にうっすら笑みを受かべる。
「小鳥の小父さんに、見つけてもらいなさい」
そうつぶやきながら、さえずりを邪魔しないよう静かに本を閉じる。この本を小父さんが借りに来るのを、カウンターの向こう側でいつまでも待っている。

この司書の話に至ると、妄想の世界か? という領域に入ってくる。しかし、人間が何をよりどころに生きているのか、ということを考えると、人の正常/異常の境界線を引くことの難しさを感じる。オセロのように、あるとき一瞬で白黒が逆転することさえあるように思う。

今日の続きが明日には約束されていないことを知ることは、生きる意味を考えるうえで最も大切なことだと思う。さまざまな制限(とみなされるもの)を加えられている人が生きていく姿を描き続けている小川洋子に教えられることは多い。

小川洋子の小説に共感できるか否か。これは想像力のテストなのかもしれない。

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