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2018年5月13日 (日)

『昭和の読書』 荒川洋治 (幻戯書房) 2011年

『昭和の読書』荒川洋治(幻戯書房、2011年)を読んだ。6割が書き下ろし、その他は、2009~2011年の間に「毎日新聞」、「日本経済新聞」、「モルゲン」、「日本近代文学館年誌 資料探索」、「學鐙」、「週刊朝日」に書かれたもの、そして、夏葉社『レンブラントの帽子』の解説、である。

はっとする言葉が、いつもながら、随所に散りばめられている。付箋を貼りながら読み進めると、付箋だらけになり、あまり意味を成さないほど。長年、荒川さんの書かれるものを読んでくれば、「あ、また怒っている」とも思うし、「この作品が好きなんだな」と思うし、「この主張はやはり変わらないのだな」とも思う。

本書の特徴は、タイトルでもある「昭和の読書」シリーズである。あとがきによれば……

昭和という時代に、内容、形態の面で、いまはあまりみかけない書物が刊行された。そのなかから、文学の風土記、人国記、文学散歩の本、作家論、日本文学史、文学全集の名作集、小説の新書、詞華集などを選んだ。(中略)

作家論は、何冊くらい刊行されていたか。文学史は、どうなのか。名作集は、いつまで存在したのか。(中略)本を並べる作業は、単純だ。でも並べて見つめると、それまでは感じなかった一冊の世界や位置が見えてくる。新しい楽しみがはじまるのだ。(中略)

昭和が終わるあたりから、読書の世界は変わった。失われたもの、よわまったものも見えてきた。この時期、自分なりに整理をしておきたくなったのだ。

とある。

昭和の時代を振り返るために、書物の世界を広く眺めての力作。しばらく読書から離れていた私は、改めて本の世界の地平を示してもらえた心地がする。

作家論を紹介するくだりでは、荒川さんのまとめはこのような感じ。

読者にとって、作家論とは何か。その作家像を知るための基礎的な参考資料である。作家単位なので、読み物としても味わえる。だが作家論はいきなり、<野間宏が「暗い絵」で書いたように>とか、<丸岡明は、「生きものの記録のような>というふうに作品名を出して、どんどん前へ進む。読む人の知識は顧慮せずに。ある程度作品を知らないと、つらい。十分な読書経験のある人が対象なのである。いっぽう、こんなこともある。

たとえば二〇人の作家論で、興味のある作家のところを読んで、時間が余るとき、興味のない人のところをしぶしぶ読むうちに引き寄せられ、興味の幅がひろがることも。現在は、ひとりの国際的人気作家の論集は出るが、その人だけをめぐるものがほとんど。複数の作家を論じるものは、読者に敬遠される。知らない人のものは読みたくないという思いが強いからだ。いまは自分の興味をひろげないための読書が押し進められている。(「昭和の本Ⅰ」より)

前半は、知識のない一般読者に寄り添っているのに、後半は、いきなり現状への怒りのトーンに満ちている。「自分の興味をひろげないための読書が」という表現がすごい。

「昭和の本Ⅱ」では、文学史のおもしろさについて語る。

意外なものを結びつけて、読者の興味をひろげる。それが文学史のおもしろさだ。次に挙げる文章は、文学史の本のなかにあるものではないが、文学史的な見方とはどんなものかを教えてくれる。『日本の文学9徳田秋声(一)』(中央公論社・一九六七)の「解説」で、川端康成は記す。

日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ。

これには、いわれがあるという。(中略)

こんな視点があるのかと、おどろく人も多いはず。「飛ぶ」ということばで、すべてがおおえるわけはないとしても、直線的で、爽快だ。どこかで何か「飛んで」いないか。そんな興味も生まれる。文学史の風景は、作品のもつ景色よりも楽しみが深い。見たことのない世界を加える。(中略)

少し置いて、村松定孝による『丹羽文雄』(東京ライフ社・一九五六)については、「作家論の本筋を離れて、大胆な見方を披露。明治から昭和の歩みを、ひとふでがきで表す。」として、次のような紹介をする。

(略)

そのあと、新感覚派、プロレタリア文学、そして戦争期へと続き、丹羽文雄登場の意味へと導く。川端康成と村松定孝の文に共通するのは、徳田秋声、丹羽文雄という個々の文学者の存在を中心にして書かれている点だ。顔のないものをただつらねるのではなく、個人に焦点を合わせるとき、文学史は熱くなる。その熱さが個人と全体をつらぬくとき、文学史は輝きをます。

後半は、いかにも荒川さんらしい文章。輝いている。そして、続くのが現状批判。厳しい。

現在、文学はどのようになっているのか。それをクリアなことばで表現できる批評家はとても少ない。波風を立ててでも、全体をひっぱって行こう、景色をゆさぶろうという人はほとんどいない。作家たちの話題作はいつも出て、読書界、文学の世界をにぎわすが、すべて単発。騒ぎは、点で終わる。線にならない。作家の個人活動が、新聞の文芸欄や広告欄に掲載されるだけで、文学そのものの方向を考察する記事は少ない。あっても内容が鈍い。表面的には文学は存在するものの、実は「なにもない」という状態なのだが、作家も批評家も、いつも誰かのそばにいるという感じで、飛び出す力をもたない。気がつくと、書く人だけがいて、歴史どころか景色すらない世界になってしまった。

ああ、もう絶望的。。。「文学史のない時代」と、このあとの文学史に記されるのかもしれない、とまで。

ある種の詩人への批判の激しさはいつものことなので、ここで挙げることは控えるが、本書で救われたのは、「散文と詩歌のとけあう空間」への肯定、賛美であった。「詞華集の風景」の中で、荒川さんはその点を繰り返す。山本健吉『現代文学風土記』(一九五四)の紹介のなかで、紹介された詩を丁寧にすべて列挙したあと、このように書く。

二四〇頁の本文のなかで、これだけ多数の詩歌を適所におさめること、語ることはいまの批評家にはできない。各地の風土を伝えるには、短い詩歌が適切ではあるが、詩歌についての知識がなければ、こうしたことは不可能である。それはともかく、散文のなかに出てくる詩歌はうけいれやすい。違和感がない。散文は砂だとすると、詩歌は石みたいなもので、やわらかい砂がないと、石そのものがぶつかったり、割れたりする。散文と詩歌のとけあう空間を知る。それが山本健吉の著作の卓越した点だと思う。

またまた、いまの批評家にはできない、と言うわけだが、日本は著しく散文偏重だ、というのが従来からの荒川さんの主張。そんななかでのこの指摘には救われる。結びは、必ずしも希望に満ちているわけではないが、トーンはだいぶ穏やかだ。

それでもぼくは山本健吉の本のなかで詩が現れるようすが、とてもいいものだと感じている。石は砂をかぶり、砂は石をかぶる。詩と散文が引き合い、とけあう情景だ。人間の書物として、自然なものだ。一般的な文章の歩調のなかで、ものを感じるひとときも与えられる。このような本を書ける批評家も、そのような本を読む人も、そのあと少なくなったように思う。石は石だけになり、砂は砂だけになった。

さらにいえば、一冊の本の内容だけでも、形式だけでもないものに、何かがひそんでいる。そのような書物がなくなる方向にあるのかもしれない。

昭和の読書関連の紹介はこれくらいで終えておくとして。

さて、本書を読んで、『トニオ・クレーゲル』(本書では『トーニオ・クレーガー』と記載されている)を再読してみたいという気持ちにさせられた。余りにも魅力的に本作を紹介している「芸術の人生」を読んだから。「読んだばかりでも、また読みたくなるのは、この小説のことばと、そこに示される真理に、何度でもさわりたいためだ。ずっとふれていたいのだ。こうして読者の内側に新しい読者が、無数に現れることになる。」などと書かれていたら、ええっ、そうなの? 大変、大変。全然覚えていない。読まなきゃ損しちゃう、という気持ちにさせられるのである。

挑発的で、楽しい本。現在の文学の世界、詩の世界への怒りは時にとぐろを巻き、容赦ない言葉で切り捨てる。そう、荒川さんは怒る人だから。そして、荒川さんは、本当に読むことが好きなのだなぁとしみじみと感じる本でもある。荒川さんの目に映る現在の文学状況がたとえ絶望的であろうとも、さまざまなかたちの読書の喜びを示してくれる。もっともっと紹介したいところはたくさんあるけど、あとは、ご自身でお読みください。

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