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2020年4月12日 (日)

『サル化する社会』 内田樹(文芸春秋 2020年)

備忘的にメモ

目次は
Ⅰ 時間と知性
Ⅱ ゆらぐ現代社会
Ⅲ 〝この国のかたち〟考
Ⅳ AI時代の教育論
Ⅴ 人口減少社会のただ中で
特別対談 人口減少社会を襲う〝ハゲタカ〟問題(内田樹×堤未果)

以下、抜粋。

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Ⅰ 時間と知性

ここでは「サル化する社会」というテーマに関連する文章がまとめられている。

「サル化する世界――ポピュリズムと民主主義について」(2019年5月27日)より

私見によれば、ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである。
 (略)
「今さえよければいい」というのは時間意識の縮減のことである。平たく言えば「サル化」である。「朝三暮四」のあのサルである。

集団の成員のうちで、自分と宗教が違う、生活習慣が違う、政治的意見が違う人々を「外国人」と称して排除することに特段の心理的抵抗を感じない人がいる。「同国人」であっても、幼児や老人や病人や障害者を「生産性がない連中」と言って切り捨てることができる人がいる。彼らは、自分がかつて幼児であったことを忘れ、いずれ老人になることに気づかず、高い確率で病を得、障害を負う可能性を想定していないし、自分が何かのはずみで故郷を喪い、異邦をさすらう身になることなど想像したこともない。

(略)

自分と立場や生活のしかたや信教が違っていても、同じ集団を形成している以上、「なかま」として遇してくれて、飢えていればご飯を与えてくれ、渇いていれば水を飲ませてくれ、寝るところがなければ宿を提供することを「当然」だと思っている人たち「ばかり」で形成されている社会で暮らしている法が、そうでない社会に暮らすよりも「私」が生き延びられる確率は高い。噛み砕いて言えば、それだけの話である。

「サル化」にまつわる話は、この考え方をもとに展開されている。引用が長くなるが、

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。他者とともにあるときに、どういうルールに従えばいいのか。別に難しい話ではない。「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると自己利益が増大するかどうか」を自らに問えばよいのである。逆に、「非倫理的な人」というのは、「自分のようにふるまう人間が他にいない世界」を願うような人である。「倫理的」とは「サル」の対義語である。だから、ポピュリズムの対義語は「倫理」である。

 

賛成。

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Ⅱ ゆらぐ現代社会

民主主義の困難さについての論考、講演などがまとめられている。

「気まずい共存について」(2017年8月16日)より

民主主義というのは、例えば投票して、51対49で多数を得た方の案が採択されるとういだけのことです。「多数を制した」ということと、その案が「正しい」ものだったということは別のレベルのことです。後から振り返ってみたら少数派の方が正しかったということはしばしばあります。

だから、立法府で多数を制した場合でも、その執行者である行政府は「公人」としてふるまわなければならない。「公人」というのは多数派を代表するもののことではありません。反対者を含めて組織の全体を代表するもののことです。そのことを勘違いしている人があまりに多い。

オルテガ・イ・ガセットというスペインの哲学者がおりましたが、この人がデモクラシーとは何かということについて、非常に重要な定義を下しています。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ということです。それがデモクラシーの本義であるとオルテガは書いています。これはデモクラシーについての定義のうちで、僕が一番納得のいく言葉です。

 

僕はこのところ『フォーリン・アフェアーズ・リポート』というアメリカの外交専門誌を購読しているんですけれど、それを読んでいると、アメリカの政治学者の論調がずいぶん変わったことに気がつきました。

このところのアメリカの政治学者が言い始めているのは、アメリカはもう国際社会に対する指導力は失ってしまった、ということです。アメリカはもう世界に対して指南力のあるメッセージを打ち出せなくなった。これからは、中国とかロシアとかドイツとか、国情も違うし、国益も違うし、目指している世界のありようも違う国々と、角突き合わせながら、なんとか共生してゆくしかない、そういう諦めに似たことを語り出すようになってきた。その中に「気まずい共存」という言葉がありました。

(略)

日本でも同じです。日本の政治文化が劣化したというのは、シンプルでわかりやすい解をみんなが求めたせいなんです。正しいか間違っているか、敵か味方か、AかBか、そういうような形で選択を続けていった結果、日本の政治文化はここまで痩せ細ってしまった。

それをもう一度豊かなものにするためには、苦しいけれども、理解も共感も絶した他者たちとの「気まずい共存」を受け入れ、彼らを含めて公共的な政治空間を形成してゆくしかない。

賛成だけど、どこからどう変えていけばよいのだろう。教育からだろうか。しかし、教育については、このあと述べられるように、本当に悲惨な状況であるというのが実態……。

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Ⅲ 〝この国のかたち〟考

ここでは、憲法問題を中心に「国のかたち」を論じているものが多い。司馬遼太郎への手紙というかたちで語っているものもあれば、加藤典洋の『9条入門』(創元社、2019年)に示唆を得て展開している文章もある。

最も面白かったのが「比較敗戦論のために」(2019年3月20日)だった。「比較敗戦論」という言葉は、白井聡との『永続敗戦論』(太田出版、2013年)での対談のときに思いついたものだそうだ。日本以外の敗戦国はどのような敗戦の総括を行なったのか。白井の「敗戦の否認」というキーワードから、日本だけが例外的に「敗戦を否認」したのかどうか。他の症例研究をする必要があると考えたという。

ここで展開される「フランスは実は敗戦国」ではないか、という議論が非常に興味深い。

僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究所も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、1989年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

という経験が語られたあと、歴史を簡単にまとめている。1939年9月のドイツによるポーランド侵攻を契機にイギリスとともにフランスのドイツへの戦線布告、1940年6月の独仏休戦協定締結。フランスの北半分はドイツの占領下に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入る。第三共和政の最後の国民会議が、ペタン元帥に憲法制定会議を委任することを圧倒的多数で可決、フランスは独裁制の国に。フランス革命以来の「自由・平等・友愛」のスローガンが廃され、「労働・家族・祖国」という新しいファシズム的スローガンを掲げた対独協力政府ができる、という記述のあと

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスの摘発を行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。
対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。

今、新型コロナウイルス禍に見舞われるなか、読まれている『ペスト』を書いたアルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士だったと書かれている。

そして、このような経緯があった対独協力国、事実上の枢軸国であったフランスがぎりぎりのところで対面を保ち、連合国の一員になったのは、シャルル・ド・ゴールの軍事的・外交的実力のおかげだった、という話が展開している。

このド・ゴールが力業でフランスの対面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。本当を言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

このような各国の戦争時の事実の否認について検証したうえで、では、どうしたらよいのか、という話になっていく。そこで出てくるのが「タフな物語」を作れるかどうか、という観点である。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争体験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。
(略)
もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。
自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことも含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語を作ってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。

そして、アメリカは、戦勝国としての戦争の総括に成功したとは思わないが、「文化的復元力」に恵まれていたから強国になり得た、と話が展開していく。アメリカのカウンターカルチャーの強さは突出している、反権力・反体制の分厚い文化を持っている、というのである。ベトナム戦争のあと、精神を病んだベトナムからの帰還兵が無差別に人を殺すというような映画がいくつも作られたが、同じことを日本でできるだろうか、と。日本にも「タフな物語」が必要だと言うのである。

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Ⅳ AI時代の教育論

教育は、内田樹が本分と心得るところであるから、一段と舌鋒鋭くなるのも必然である。学習指導要領改訂で登場した「論理国語」については、くそみそ(失礼)。

「論理は跳躍する」(『すばる』2019年7月号より)

契約書や例規集を読める程度の国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作成されたものだと思いました。

このあと、結構手厳しい発言があり、内田氏のいつもの考えが披瀝される。

自分たちは子どもの頃から文学にも何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治的にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

ここから、常人には真似のできないような「論理の跳躍」の話になる。

カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の跳躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。(略)同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
(略)
「論理的にものを考える」というのは、この驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を跳び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。
でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。
(略)
ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。
学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら論理は跳躍するということを教えるべきだと思います。

このあと、文科省批判、教育政策批判がかなり辛辣な口調で語られている。

そして最後に「corollary」という単語の説明がある。「論理が要求する結論」のことで、日本語ではこれを一語で表す対応語がない、と書いている。私にしばしばテープ起こしを依頼されるある人物は、時々この「コロラリー」を用いることがある。コロラリーとそのまま書いておくか、何かしらの注を付けるかそのたびに迷う。私が起こしたものではない著書には、「付論」という注がついているものがあったが、それは違うんじゃないかなと感じたものである。本書のこの論考を読んで、コロラリーという言葉が私の中できちんと位置づけられたように感じている。

「AI時代の英語教育について」(『東京私学教育研究所所報』84号、2019年3月)より

ここでは、外国語を学ぶことの本義とは「目標文化」にたどりつくことだ、ということが語られる。これは、たどり着きたい「目標文化」をどのように設定するかによって、同じ外国語であっても学ぶ内容が変わってくる、ということでもある。例として挙げているのが、自身の世代にとって英語の目標文化はアメリカ文化だった。英米のポップ・カルチャーにアクセスしたいから、英語を学んだ。あるいは、高校、大学時代は、人文科学、社会科学分野での新しい学術的知見はフランスから発信されることが多かった。そこにアクセスするためにはフランス語ができなければいけない。だから学んだ。しかし、今の英語教育には目標文化が存在しない。「英語という目標言語はあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。」
 このあと、『文科省の「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の策定について』について、徹底的な批判が展開される。いや、本当にそのとおりだと思うのだけれど、なかなか共有されない高度な主張なのかもしれない、と思わないでもない。「とりあえずしゃべれたほうがいいでしょう?」という反論が出そうな気がしてしまう。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近していくことです。
フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。
 外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。
 でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。(略)外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。
(略)
「勉強するとこんないいことがある」とか「勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。
 学習の場では決して利益誘導してはならないということを理解していない人があまりに多い。

学習の場での利益誘導、教育にビジネスを持ち込むことは絶対に駄目、ということは、内田樹が至るところで繰り返して言っていることである。私も、ご褒美で釣って努力させようとするなんて、恥ずかしいというか、情けないというか、人間に対してそんなこと……と思うのだが、小さい頃から周囲にその価値観を見ることは結構あった。「テストでいい点を取ったら、〇〇を買ってもらえる」と。意味不明。そんな発想をする親も親だし、子どもも子どもだ。そういう人間でなくてよかった、と自分では思うし、内田さんの「外国語を学ぶことは母語の檻からの脱却」というところに強く共感する。

言葉を通して想像力というものは培われると思うし、想像力を通して未知のものにアクセスすることができると思う。ということは、本を読まない、言葉を大切にしないという態度では、見知らぬ物事へのアクセスの手段を手にすることができない、ということになるように思う。その結果、人の気持ちがわからない、自分さえよければそれでいい、自分と違う人や考えを尊重できないことにもなるのではないか。

未知の世界への扉は言葉によって大きく開くのだと思う。今や、世界中のあらゆる景色や事物が簡単に見られるようになり、想像力を働かせるチャンスが少なくなっている。そのことは、それをきっかけに興味関心を持つようになり、「もっと深く知りたい」と思うようになるというメリットがある反面、ちょっと見たりちょっと聞きかじっただけでわかったつもりになるというデメリットもある。内田樹さんの言う、異なる「世界の分節」や「コスモロジー」という未知の世界へのアクセスは、簡単な画像を見るくらいで達成できるわけはなく、言葉を通して想像したり、葛藤したりするなかで、ほんの少しずつ近づくことができるようなものだろう。英語を学ぶ向こうにどんな文化を想定しているのか。文科省にそれを尋ねたところで……という感じではあるが。

このほか、日本の学校教育をよくする方法は「成績をつけないこと」であるとか、教育は集団の義務であり、集団で行うものである。教育を受けるのは個人だけれど、その個人の行動から受益するのは子どもたち個人ではなく、共同体そのものであるとか、本当にそのとおりと深くうなずく事柄が述べられる。同時に、実現することはおそろしく困難であろうという気持ちになる。

さらに展開して、江藤淳や村上春樹の例を挙げたあと(この説明を入れるとさらに長くなるので割愛)、「母語の過去に遡ること、母語の深みに沈み込んでゆくこと、これが創造において決定的に重要なことなのです。これもまた僕たちが日常的に囚われている「現代日本語の檻」から利達するための重要な手立てであるのです。」と語っている。「外国語を学ぶことも、母語の「淵」深く沈潜してゆくことも、ともに「母語の檻」から抜け出ることをめざすという点では少しも矛盾していません。言葉を学ぶということは、この二つのいずれをも欠かしてはならない、僕はそう思います。」

本当にまっとうな考えだと思うし、説得力もあると思うのだが、これに反論するとしたら、どういう考え方があるのだろうか。反論している人がどこかにいるだろうか。もし公開されているなら読んでみたいと思う。

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